●荘園整理令 しょうえんせいりれい
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律令国家の財政基盤は公民より徴収される租税であったが,9世紀ころより不輸不入の権利をもつ荘園が増加し,その基盤をおびやかされることとなる。ここに新立荘園を抑制し,またそれ以前の荘園も収公可能なものは整理しようとして出されたものが荘園整理令である。最初の整理令は902年(延喜2)3月12日,13日の両日にわたって出され,以後平安末期までたびたび発令されることになる。延喜の整理令はその基本ともなるので内容をまとめておくと,(1)内膳司が元来所有していた御厨を除いて,それ以外の臨時の御厨・諸院諸宮王臣家の御厨はすべて停止する。(2)最近勅旨開田があまねく諸国に在り,また百姓が課役を遁れるために寄進売与して農桑の地がなくなるので,勅旨開田をことごとく停止し,寄進売与した土地を公験のとおり本主に返却させる。もし百姓が売与,あるいは権門・寺社などが買取る・請占めることがあれば厳罰に処する。(3)諸院諸宮王臣家が民の私宅を借りて庄家と号し,官物を妨げるので,今後偽って庄家といい国務を妨げるものは厳罰に処する。(4)諸院諸宮王臣家が元来公共のものであるべき山川藪沢を独占することを禁じ,占有しているものがあればすべて収公する。以上の4条である。しかしこれらは不正な荘園の禁止をめざしたもので,相伝されて来たもので券契の分明なもの,国務に妨げがなければこの限りではないとして整理の対象から外されており,正統な手続きを経た荘園はその存続が認められた。これは当時の貴族・寺社の経済基礎がすでに荘園経営に依っていたためである。984年(永観2)に再び整理令が出されるが,このときには902年(延喜2)以後の荘園が対象とされており延喜の整理令は一応の成果をあげたと思われる。以後,987年(永延1)王臣家が田地を設けて国郡の妨げをすることを制止,1040年(長久1)当任以後の新立荘園を停止,1045年(寛徳2)前任国司在任中以後の新立荘園を停止,1055年(大喜3)寛徳の整理令以降の新立荘園の禁止,1069年(延久1)再び寛徳の整理令以後の新立荘園を停止し,加えて券契が不分明で国務に妨げのあるものはそれ以前でも停止する,1075年(承保3)三たび寛徳の整理令以後の新立荘園の停止と続き,1056年(保元1)最後の整理令が出され,その前年である1055年(久寿2)以後の新立荘園および不法手段によって得た加納出作田が停止されている。それぞれの整理令は時の為政者の方針にもとづいて出されているが,彼ら自身が多くの荘園を領有しており,整理の実をあげるのは困難であった。しかし延久の整理令は摂関家の外戚をもたない後三条天皇親政下の政策であり,従来国ごとに国司が公験を調べて停止するか否かを決めていたものを,記録荘園券契所(記録所)を創設して全国の荘園の整理をここで審査決定する方式がとられたために相当の成果を得ている。例に石清水八幡宮の所領を見てみると,34カ所の荘園は,審査の結果21カ所の存続が認められて残りの13カ所は不法のものとして収公されている。このときに収公された荘園は公田とされず,勅旨田として天皇の管轄下に置かれたものが多かった。これは天皇親政のための経済基盤確保をめざしたと考えられ,以後この勅旨田は増加して皇室領荘園として伝領されていく。しかし,同時に不輸不入を認めた官省符荘と国司がこのとき検分して免判した国判とを同等の効力が存するものとされたため,以後本来新立荘園の増加を阻止し,あれば収公すべき国司が,新立荘園を積極的に増加させるようになる。保元の整理令でその規準を久寿にまで下げているのは,院政下ということもあるが,この点も影響を与えている。なお上記以外にも国別に出された整理令が知られているが,現在知られているものはおもに11世紀に出されたもので,対象は因幡・志摩・若狭・和泉・伊賀・紀伊・越中などの国である。これらは国司の上申によって出され,それも多くは全国対象の整理令に依って発布されたものである。
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