●巡礼(西洋) じゅんれい
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西洋の場合,日本の四国遍路や西国(さいこく)巡礼などと違って,多数の霊場を循環的に歴訪すること自体に目的をおいてはいない。むろん,途上の諸霊場に立ち寄ることは信仰上有意義としたけれど,目的はあくまでも所期の霊場に到達することであった。この点,強いて類例を求めるとするならば,日本の熊野詣や伊勢参りに似ている。宗教感情,とくに民衆の宗教感情の表現形式としての巡礼の起源は非常に古く,すでにキリスト教以前の諸宗教においてこの慣行は存在した。ギリシアでは,大祭の折に他のポリスが参詣の使節団を派遣することがあったし,とくにデルポイのアポロン神殿には神託を求める諸ポリスの使節が集まった。これらは多少とも国家的行事なので,厳密な意味での巡礼とは言いがたいが,東地中海を航海する水夫たちが,デロス島に寄港してアポロン神殿になにがしかの供物を捧げ,あるいは,願文や報恩のことばを刻んだ碑を奉納した風習のごときは,実質において巡礼と同じである。ギリシアの神々の体系のなかでは,きわめて低い地位しか与えられていないものの,アスクレーピオスは,病気治癒の霊験で庶民巡礼を集めた。エピダウロス・コース・クニドスがアスクレーピオス信仰の中心で,巡礼は神殿に参籠(さんろう)して奇蹟による病気平癒を祈願した。この神の子孫と称する医師団が神域内に居住していたという。エピダウロスからはアテナイ・ペルガモン・ローマなどに分祠された。ヘブライ人の間では,いわゆる士師時代に巡礼らしきものが発生した。各支族ごとに聖所があったのはもちろんだが,それらの上にダン・シケム・ギルガル・シロなど超支族的な聖所が出現したからである。わけてもシロが有名で,〈年ごとにその町を出でてシロにのぼり,ここに2万軍の神エホバを拝し供物をささげた〉(サムエル前書第1章)エルカナのように熱心な巡礼も出現した。王国の成立とともに,中心聖所がイェルサレムに移ったことは言うまでもない。年三回の大祭には全国から巡礼が集まったので,イエスの両親ヨセフとマリアも〈過越の祭には年ごとにイェルサレムに行った〉のである(ルカ伝第2章)。復活したばかりのイエスがエマオに出現したとき,これに気づかぬ二人が言ったのも〈見れば御巡礼のようだが〉ということばであった(ルカ伝第24章)。紀元70年にイェルサレム神殿が破壊されて祭りが行われなくなっても,巡礼はやはり参集しつづけた。ハドリアヌス帝によってユダヤ人の城壁内立入りが禁じられると,巡礼たちは壁の前に集まった。いわゆる“歎きの壁”がこれである。中世,十字軍がイェルサレムを占領すると,皮肉なことにユダヤ人の巡礼も可能となる。1210年,イギリスとフランスからラビ300人がイェルサレムに巡礼したという記録もある。【初期キリスト教時代の巡礼】キリスト教のなかから新たに巡礼の風習が発生したのではなく,以前の宗教の習俗をキリスト教が引き継いだのである。旧約の族長の墓所であるヘブロンやマムレのかし林にはユダヤ教徒に交じってキリスト教徒が巡礼したし,エジプトのエレミアの墓には,その埃が薬効を表すと信じられたため6世紀になってもキリスト教徒をはじめさまざまの教徒が巡礼していた。エフェソスのアルテミス神殿も諸宗教混交の信仰対象であったが,ここに使徒ヨハネの墓があると信じられ,5月8日に使徒の息吹きによって墓から吹き出される埃に治癒の奇跡を期待する巡礼が集まり,キリスト教の霊場と化した。殉教者の墓所が崇敬の対象となったことを示す文献上の最古の例は,156年ごろのスミルナ司教ポリカルポスの場合だが,帝国によって公認されてのちは多くの聖遺物が集められ,それを奉安する教会に巡礼が集まった。すでにアウグスティヌスは聖人の徳に学ぶことを勧める一方で,聖人崇拝の逸脱を警告している。こうして成立した諸霊場のなかで,やがて聖地イェルサレム・ローマ・サンチャゴが三大霊場の地位を占めるに至る。
【聖地巡礼】4世紀にはすでに西欧からパレスチナに赴く巡礼がいた。アエテリウスの『巡礼記』は,最も古い記録の一つである。この時期の東方巡礼の多くは学問僧であって,アエテリウスが〈常に聖書と見くらべながらあらゆる地を尋ね歩いた〉と記しているように,信仰と知的探究心が動機となっている。4世紀にはだいたいの順路が決まっていたらしく,シナイの山や使徒トマスの墓のあるエデッサを訪れる巡礼が多かった。最大の目的は,もちろん,イェルサレムの聖墳墓教会である。聖地巡礼はしだいに集団化し,ついには十字軍という武装巡礼に発展した。正規の十字軍士が戦闘員であったのは言うまでもないが,第1回十字軍を鼓吹した隠者ピエールは貧しい巡礼の大群を率いていたし,また,少年十字軍は無統制のまま悲惨な結末を招いた。十字軍は民族の巡礼熱をも吸収したのである。
【ローマ巡礼】4世紀には,イタリア全土のみならず,ガリア・ブリタニア・北アフリカから巡礼がローマに集まっている。ここは二大使徒ペテロとパウロをはじめ,最も多くの殉教者を出した都であるばかりか,東方からもたらされたおびただしい聖遺物が集積されていた。ローマ法王の権威が高まるにつれ,西欧第一の巡礼地となる。ローマへ来る巡礼の動機は,救済贖罪(しょくざい)の希求が第一で,知的探究心はほとんど問題となっていない。東方十字軍とサンチャゴが巡礼を吸収した12,3世紀はローマ巡礼の相対的沈滞期に当たるが,14世紀に入って空前の盛況を呈した。大罪はペテロのみが赦すことができるという信仰は古くからあったが,聖年の設定によって制度化される。1299年末から民衆のあいだに噂が流れた。翌年のローマ巡礼は罪障消滅に未曽有の効があるというのである。1300年2月法王ボニファティウス8世は,同年12月25日までにサン=ピエトロ大聖堂およびサン・パオロ・フオリ・レ・ムラ寺に引き続き15日間参詣する者に全贖宥が与えられる旨,勅令をもって公布した。これが聖年の始まりで,以後何度か聖年が布告されたが1450年に至って25年ごとの設定と規則化された。巡拝箇所も14世紀には上記二寺のほかにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノとサンタ・マリア・マジョーレが追加された。一口に“ローマは155寺”という。巡礼は指定寺院のほかにも多くの寺院に参詣したのである。15世紀に広く読まれたローマ巡礼の案内書『ローマの驚異』(別名『贖宥の書』)は,諸寺の秘蔵する聖遺物を解説した上,バチカンの石段を一つ登るたびに七年分の罪の赦しの功徳があり,聖骸布(スータリウム)の開帳を拝観すれば,ローマ住民には5000年分の,海山を越えて来た者には12000年分の贖宥が得られると書いている。聖年にはおびただしい巡礼が殺到し,そのほとんどが戸外に眠った。1450年には行き倒れた外国人3,500人をバチカンの背後の野(カンポ・サント)に埋葬したという記録がある。巡礼は“二人の君主”(両使徒)や“鍵”を描いた布片やメダルを記念に持ち帰った。ローマ巡礼が講仲間(兄弟団)を結成した例は見出されない。
【サンチャゴ巡礼】9世紀,スペイン北西部ガリシアのコンポステラに使徒ヤコブ(サンチャゴ)の遺骸があるという説がヨーロッパに広がった。ヤコブのスペイン伝道,あるいは遺骸のスペイン渡来は史実としては証明できず,忘れられた古代墓跡で発見された誰のものとも知れぬ石棺がヤコブのものと信じられたにすぎないが,イスラーム勢力に圧迫されるという危機的情況のなかで,キリスト教徒の精神的支柱としてヤコブ信仰は不動のものとなった。ヤコブ伝説を創出したのはアストゥリア地方の学問僧たちであったらしい。1000年ごろには全ヨーロッパから巡礼が来ており,12世紀に最盛期を現出した。ブルゴーニュのクリュニー大僧院は,サンチャゴ巡礼に大きな関心を示し,巡礼路上に分院や救護所を設立して巡礼の保護に当たった。ヤコブはスペイン再征服(レコンキスタ)の守護聖者となり,再征服戦に参加する兵員や入植者も巡礼の形をとったのである。ヤコブ伝説はカール大帝伝説と絡みながら発達する。12世紀に編集された『聖ヤコブの書』に収められた『サンチャゴ巡礼の案内』は当時の巡礼を知る貴重な史料である。巡礼は帆立貝の貝殻,または同型のメダルを記念品とした。サンチャゴ巡礼の経験者たちは西欧諸都市に講仲間(兄弟団)を結成し,巡礼の救護や施療に活動した。
【その他の巡礼地】三大霊場のほかにも大小の霊場があって,巡礼が集まった。ベケット・トマスの墓があるカンタベリ,ヴェネツィアのサン・マルコ寺,トゥールのサン・マルタン寺,ノルマンディのモン・サン・ミシェル等はなかでも有名な例である。小霊場は14,15世紀に急増の傾向を示し,ストラスブール司教区だけの例をとってみても1300年までは6霊場であったのが,1500年には40霊場に達している。14,15世紀の社会的混乱と堕地獄の恐怖の拡大という風潮に対応して,フランチェスコ会の説教の影響が大きかった。巡礼寺はなんらかの聖遺物を安置していて,それが奇跡をおこすと信じられた。巡礼がもって帰る記念のメダルにしても,単なる記念の品ではない。これを聖遺物に触れれば霊力の一部が移ると考えられたのである。メダルの製造販売は,寺にとっても門前町の住民にとっても大きな収入源であったから,しばしば紛争の種となった。多くの場合,販売権を住民側に,祭壇に供えて聖別する権利を寺側に留保することによって解決された。巡礼の心願はさまざまであったが,群小の霊場では病気治癒の祈願,むしろ治癒奇跡の待望が圧倒的に多い。それもたとえば,ストラスブール司教区内のサン・リュダン寺の手足の麻痺,サント・オディール寺の眼病,サン・ブレーズ寺の家畜の病気,サント・アッタール寺の歯痛のように,霊験の専門化が見られる。教会は巡礼の出発のミサや杖の聖別,手形の交付等によって巡礼を統制しようとするが,本来民衆の自発的な信仰行事なので統制が徹底したわけではない。14,15世紀に何度か生じたモン・サン・ミシェル少年巡礼のように,衝動的な巡礼熱の高揚すら見られたのである。近代に入るとしだいに退潮するが,けっして跡を断ったわけではない。それどころか,19世紀になってルルドのような大霊場の成立すら見られるのである。