●巡礼(イスラーム) じゅんれい
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イスラーム教徒が行う聖地メッカヘの参詣と,それに伴う宗教儀礼のことをいう。信仰告白・礼拝・喜捨・断食と並んで,イスラーム教徒が守るべき五つの宗教的義務(五行)の一つをなす。ただし,義務といっても財力に余裕がない場合,病気や子供の場合は無理に行う必要はなく,心身ともに壮健な者が一生のうちに一度行えばいいことになっている。厳密にいうと“巡礼”には,三つのカテゴリーがある。第1は“大巡礼”(アラビア語で“ハッジ”)で,これは毎年,イスラーム大陰暦の12月=ズルヒッジャ月(=「巡礼月」)に,メッカに集まってきたイスラーム教徒が集団的に行う大祭のことをいう。第2は“小巡礼”(ウムラ)といわれているもので,月に関係なくメッカに行ってカーバの神殿に個人的に参拝する行為をいう。第3は“参詣”(ジャーラト)と呼ばれるもので,メッカ以外の聖地・聖者の墓にお詣りすることをいう。とくに有名なのがシーア派の人たちが行う“参詣”で,歴代イマーム(教主)の墓のあるイラクのカルバラー・ナジャフ・サーマッラ・カージマイン,イランのコム・マシュハド,アラビア半島のメディナが聖地として名高い。以上,イスラームの巡礼には三つの形が知られているが,ここでは第1番目の“大巡礼”を主として扱っていく。本来,巡礼は純粋な宗教心から発したイスラーム教徒のやむにやまれざる行為である。しかし,聖地メッカに行くまでには,アラビア半島の人たちは別として,大多数の人たちは長途の旅をしなければならない。これによって巡礼は本来の目的のほかにさまざまな副次的な結果をイスラーム教徒に与えてきた。たとえば,商人はメッカに赴く途中で売買や取引きを行い,商売のやり方,商習慣の違いを学ぶことができた。学者にとっては,イスラーム世界の各地に散らばる高名な智徳を備えた人たちに出会うことができるまたとない機会であり,情報のネットワークを広げることができた。メッカへの旅は,交通手段の違いによって19世紀以前と以後で大きな違いがあった。まず,19世紀以前では陸路による場合,キャラバン(隊商)を編成して行くことがふつうであった。キャラバンが編成される場所は,主要なイスラーム都市,なかでもカイロ・ダマスクス・バグダードが有名であり,これらの都市で各時代の為政者は,威信をかけて国家権力を後楯とするキャラバンを編成した。カイロは地元のエジプトはもちろんのこと,北アフリカ・西アフリカ・スペイン方面からの巡礼者の集結場所であった。ダマスクスはシリア・トルコ方面,バグダードはイラン・中央アジア・コーカサス方面の巡礼者の集まるところであった。キャラバンの出発時期は,メッカまでの所要日数に違いがあるため出発地によって異なるが,メッカまでカイロから35日,ダマスクスから30日かかることを考慮に入れると,巡礼の大祭が行われるズルヒッジャ月の約1カ月前が出発時期であったと考えられる。キャラバンは巡礼者のほかにラクダ・馬・羊などから成り,“アミール=アル=ハッジ”(巡礼隊長)に率いられた軍隊が護衛にあたった。これによって巡礼者は盗賊の襲撃や砂嵐などの自然の脅威から身を守ることができたのである。なお,このようなキャラバンを編成したエジプトの諸王朝・オスマン朝の支配者は,権威を誇示するために肩轎(かご,マフマル)をしばしば運ばせ,また,カーバの神殿を覆う布(キスワ)を寄進した。海路でメッカに行く場合は,地中海・あるいはインド洋・アラビア海から帆船で紅海に入り,アラビア半島西岸にあってメッカの外港であるジェッダに到着してから聖地に入った。インド洋方面からはイェーメン地方のアデンが重要な中継地であったが,地中海方面からはエジプトのアレクサンドリアにいったん上陸し,陸路で紅海西岸のアイザーブ港やシナイ半島のトゥール港に出て,そこからジェッダに行くというコースをとった。19世紀に入ると交通革命がおこり,陸路では自動車・バス・鉄道(たとえば1908年開通のヒジャーズ鉄道)が巡礼者を運ぶ足になり,海路では蒸汽船による輸送が一般的になった。とくに,1869年開通のスエズ運河の開通はこれに拍車をかけた。近年では,飛行機が巡礼者を運ぶ主要な輸送手段になっている。“大巡礼”の大祭は,以下のような順序で行われる。すべての巡礼者は,メッカの聖域に入る前に,白い二枚の木綿布から成る巡礼衣(イフラーム)に着替えて清浄な状態に入る。これをまとった後は,異性との接吻・性交・結婚・爪を切ったり,髪や髭を切ったり剃ったりすることは一切禁止される。そして,メッカの聖モスクに到着した巡礼者は“到着のタワーフ”を行う。これはモスクの内庭にあるカーバ神殿の周りを黒石を基点にして左回りに七回巡り,その後,イブラーヒーム(アブラハム)の倒立所で一連の礼拝の動作を二度行う。さらに聖モスクの東側に隣接したサファーとマルワの丘のあいだを三往復半する“サアイ”を行う。これはアッラーの命により,イブラーヒームがメッカをあとにした後,残された妻子が飢えと喉の渇きに苦しみ,妻が息子のために両丘のあいだを登り降りして水を探し求めた故事に由来する儀礼だという。“タワーフ”と“サアイ”とを合わせて“小巡礼”ともいっているが,これは公式の大祭が始まるズル=ヒッジャ月8日以前に,それぞれの巡礼者が個人的に済ませておくべきものといわれる。大祭は8日に始まり,13日にすべての行事日程が終了する。巡礼者は集団を組んで,8日からメッカ東郊の聖地へ移動を始める。白衣に身を固めた巡礼者の群は,昔は歩いたりラクダに乗って,今は自動車・トラックに乗って,まず初めに12Km東に位置するミナーの谷間に向かう。巡礼者は,ふつう8日の昼の礼拝の時刻から翌朝までここに野営する。翌9日の払暁前,礼拝を済ませてからさらに東に移動して,メッカから26Km離れたアラファートの原野に至る。ここは楽園を追われたアダムとイブが再会した場所といわれ,大祭最大の行事ウクーフの行われるところである。この原野の北にあるラフマ(慈悲)山の麓にすべての巡礼者が集まり,昼と午後の礼拝を合わせて行う。日没までアッラーの名を祈念(ドゥアー)したり,唱名(ズィクル)をしたりして過ごす。預言者マホメットの説教にならってウラマーの説教も行われる。巡礼者一向が会した原野は,人とテント群で立錐の余地もなく,民族・国籍・貧富の差を超えた“イスラーム共同体”の成員としての集団感情が湧き起こってくる感激的なときでもある。日没を迎えると,もと来た道をとって返しメッカの東18kmのところにあるムズダリファに行き,ここに翌10日の未明まで滞在する。行くときに小走りに走って行くので,アラビア語でイファーダといわれる。日没直後と夜の礼拝を一緒に行い,翌10日の日の出とともに,ムズタリファで小石を拾い集めてミナーの谷間に向かう。ミナーには,悪魔を象徴する三つの石標(柱)がメッカに近いところから大・中・小と並んで立っており,これらに対してそれぞれ石を投げる行事が行われる。これには悪魔祓いの意味がこめられている。石投げは3回に分けて行われる。第1回目は10日の日の出後に行われ,この日は大石標に向かって一個ずつ7回石が投げられる。それが終わると,動物を屠ってアッラーに棒げる犠牲祭に移る。これはイブラーヒームが行ったアッラーに対する献身行為のひそみに倣ったもので,巡礼者は犠牲を棒げることによって,アッラーへの託身を確認するのである。犠牲獣はラクダ・牛・山羊であり,価値としてはラクダが最上とされ,有力者は競ってこれを屠るようにしている。ミナーには,この日をあてこんでベドウィンや商人の家畜市が立つ。犠牲獣は屠殺後,貧者に配られる。10日の犠牲行事が済むと,巡礼者はイフラーム(巡礼衣)を脱ぎ,ふつうの服装に戻ることが許される。髪や髭を切ったり剃ったりして俗なる状態に戻り,12日まで2回にわたって石投げの行事が続けられるが,3日間を思い思いに楽しく過ごす。国を違える人々がたがいに交歓し,にぎやかな商業市が立つのもこのときである。巡礼者は,ミナーに第3回目の石投げを終える12日の日没まで,また遅くとも13日の日の出前まで留まるが,この間にもメッカのカーバ神殿とのあいだを往復して「巡礼月10日のタワーフ」を行ったりする。13日までにすべての巡礼行事を終え,巡礼者はカーバ神殿に赴いて最後の「別離のタワーフ」を行い,メッカの町を立ち去ることになる。この後の行動はまったく巡礼者の自由に任されているが,多くの者は預言者ムハンマドの聖廟があるメッカ東北の内陸のオアシス町メディナに参詣に行く。
巡礼という宗教儀礼は,イスラーム時代になって初めてできたものでなく,それ以前にもカーバ神殿・ムズダリファ・アラファートなど,メッカおよびその周辺にある聖地を巡る習慣がアラビア半島のベドウィンのあいだにあったようである。それは多神教的な偶像崇拝と結びつくものであったが,預言者ムハンマドがイスラームを興してから,それを一神教的に組み直して今ある巡礼の形ができあがった。巡礼が行われる時期は,イスラーム暦12月8日から13日までであるが,イスラーム暦は太陰暦で,閏月が設けられていないため季節は一定していない。預言者ムハンマドの在世中は昼に巡礼が行われていたが,巡礼の起源は一説によると北セム族の秋の祭りに由来するともいわれ,これに従うならば秋がもともとの巡礼の季節であったのかもしれない。巡礼は単なる宗教儀礼にとどまるものでなく,イスラーム世界全体に有する意義ははかりしれなく大きいものがある。地理的・民族的に広大な広がりをもつイスラーム世界の人々に,巡礼という実際的行為を介して共通の文化・アイデンティティーを再認識させる機能を巡礼はもっている。これに参加した人々は,メッカにおいて互いに情報を交換し,新しい思想・文化を故郷に持ち帰る。巡礼は交流と伝播の場でもあったのである。たとえば北アフリカにムラービト朝(1061〜1147)が,宗教運動によって国を建国したのは,サンハージャと呼ばれる遊牧のベルベル人が,メッカに巡礼して受けた宗教的衝撃によるところが大きい。また,テクシュバンディー教団の神秘主義運動を19世紀以降,インドから中東にもたらし,逆にアラビア半島でおきたワッハーブ派の運動をインドに伝えたのは,いずれもインド人巡礼者であった。