●春慶 しゅんけい
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漆塗法の一種で,木目を美しく仕上げる点に特色がある。生産地により,堺春慶・飛騨春慶・能代春慶・栗野春慶などの名称がある。春慶という名称は,応永のころ堺にいた漆工の名といわれるが,永平寺にいた中国からの渡来僧ともいわれる。こうして伝承されていた漆法に着目したのが,飛騨高山城主金森出雲守可重の長男,金森重近(宋和)(1584〜1656)である。彼は早くより風流に親しみ,故あって廃嫡されてからは茶道で知られ,宗和流の祖となっている。また,野々村仁清をも指導して陶法に新技を生み出させたが,飛騨の木工技術にも注目して,大工高橋喜左衛門を指導してつくらせた批目の木地に,塗師,成田三右衛門義賢(1687没)に命じて,春慶の技法で塗らせて,飛騨春慶を創造したといわれる。高橋・成田らは,金森家召し抱えの職人で,「金森出雲守家来付帳」によると,曲物師6人・塗師6人が扶持米を受けているが,その中で,義賢の子成田三右衛門だけは,最高の6人扶持20石を受けている。春慶塗のように,木製品の素地を生かすことは塗師の技術とともに重要で,優れた作品は両者の合作によって成るものである。1612年(慶長17)に,金森可重が,批目面桶(めんつう・水こぼし)・片口(かたくち・水つぎ)・塗木地二組および雉子一掛を,将軍秀忠へおくったといわれている(「金森先祖書」)が,これは宗和廃嫡の前々年のことである。将軍献上は例年のこととなり,それは,湯桶・片口・麪桶の三種といわれる(『飛州志』巻3)成田義賢の子三右衛門三休(1634〜1703)をはじめ,成田八兵衛政義(1685〜1702)・成田市郎兵(1690)らによっていっそう進歩した。1692年,金森氏転封後も成田一族は高山に残り,技法を伝承した。1673〜1681年延宝のころ,高山の漆工山打三九郎が,秋田県能代へ移って春慶塗をはじめ,能代春慶の祖となった。それは,木地の上を砥粉(とのこ)で目どめし,染料を塗ってから漆をしいたもので,1816年(文化13)には,能代塗の女髪道具が高山へ流入している。