●ジュンガルぶ 準ガ※注1※爾部
アジア モンゴル国 AD
17世紀前半から18世紀半ばにかけて,西モンゴル・天山北路を中心に威勢をふるったオイラート系の遊牧民集団(部族)。オイラートは13世紀初めに確認できる。当時は現在のソ連領トヴァ地方に生活しており,チンギス=ハンに征服された。元朝滅亡後本来のオイラートに周辺の諸遊牧民族が糾合し,ドルベン=オイラート(四オイラートの意)と呼ばれる連合体が形成されると,この連合体をオイラートと総称するようになった。15世紀前半四オイラートの一つ,チョロス部出身のドゴン・エセンが相ついで立ち,全モルゴン地方を統一し,中央アジアまで勢力をのばしたが,エセンの死後,オイラートはモンゴル族に圧迫され,貢納の義務を負わされた。しかし,17世紀初め四オイラート連合軍は反撃し,モンゴルに対する服従・貢納の義務から解放された。この連合軍の一翼を担った集団の一つに,ドルベト部とともにチョロス部を構成するジュンガル部があった。その部族長はハラクラで,エセンの後裔であった。ジュンガル部はハラクラのあと,バートル=ホンタイジ・センゲが部長となり,次第に力をたくわえガルダンの時に隆盛をきわめた。ガルダンはセンゲの実弟で,ラマ僧としてチベットのラサブ第5世ダライ=ラマの下で修行をつんでいたが,センゲが異母兄らと争って殺されたことを聞くと,還俗し異母兄を討ってチョロス部を統率した。次いで1676年オイラート内の有力部族のホシュート部(部長オチルト=チェンチェン=ハン)をイリ河畔で撃破して全オイラートの支配者となり,ボショク=ハンと称した。ここに天山北路のイリ地方を根拠地とする遊牧騎馬民族国家ジュンガル=ハン国が成立した(なお,1640年バートル=ホンタイジがジュンガル部族長の時,モンゴルのハルハ部とオイラートの各部族長会議が開かれ,〈モンゴル=オイラート法典〉が結ばれたが,この会議を主宰したのはバートル=ホンタイジで,この法典の制定をもってジュンガル=ハン国が成立したとする説もある)。清朝ではジュンガル部を準部と呼び,その根拠地である北山北路(その中心はイリ)の草原を西欧人はジュンガリアと呼んだ。ガルダンは1679年(康煕18)ハミ=トルファンを服属させ,翌1680年タリーム盆地のトルコ=イスラーム社会を征服して東チャガタイ=ハン家・ホジャ家を服属させ,監督官を置いて貢納を義務づけた。ガルダンはさらにサライム・アンディジャーン・タシュケント等の諸都市を侵略し,カザフ草原をその勢力下におくと,1688年今度は外モンゴルに侵入し,以後前後10年にわたる清朝(康煕帝)とのハルハ部の支配をめぐる抗争を展開したが,結局軍事力にまさる清軍に撃退された。しかも,彼の遠征中,根拠地イリではセンゲの長子ツェワンラブタンが反旗をひるがえしたため,ガルダンはイリに帰ることができず,アルタイ山中をさまよい病死した。ガルダンはモンゴル・ジュンガリア・チベットにまたがる一大ラマ教国家建設を企画したといわれるが,その野望もあえなく消えてしまった。代わってツエワンラブタン・その子ガルダン=ツェレンの時代,ジュンガルと清朝との抗争は一進一退で,1739年(乾隆4)にはアルタイ山をハルハ部との境界とすることで清朝と和した。ガルダン=ツェレンの没後内紛がおこり,彼の外孫のアムルサナは清朝に亡命し,その案内を受けた清軍によって1755年イリは陥落し,ジュンガル=ハン国は滅びた。さらに清朝の処遇に不満なアムルサナおよびオイラートの各部が相ついで清に叛いたが,清軍の徹底的な大虐殺と清軍がもちこんだ天然痘のために,ジュンガル部を含むオイラートは皆滅し,イリ地方は一時無人の地と化した。ジュンガル部は遊牧民を直接の支配下におくが,兵士に弓・槍のほか鉄砲をもたせ,駱駝に大砲をのせるといった重装備の騎馬部隊による大規模な軍事行動を繰り返し,掠奪・捕虜獲得・貢納徴収,さらに東西交易活動の直接・間接の支配によって隆盛をきわめ,ラマ教の伝来とロシア・清朝との交渉もあって,イリは強制移住者による農耕,ラマ教寺院そして都市の出現といった,従来の遊牧国家には見られなかった状況を呈した。またラマ教とともに伝えられた飲茶の風習が遊牧民の間に広まり,以後遊牧民と清との交易では茶(とくに磚茶)が重要な品目となった。
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