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●守護領国制 しゅごりょうごくせい

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 室町幕府下守護の管国支配を示す学問的名辞であり,南北朝期以降は地域的封建制が成立するとし,その組織者は守護であるという理論的要請に応える意味をもって登場したものである。封建制の段階論,あるいは時代区分論にかかわるものであるが,ここでは実態面に即して述べていく。

【守護職の変質と管国の構造】幕府法上の守護は一国の吏務職,遷替の職として位置づけられており,当初はめまぐるしく交替することもあった。しかし一方では守護職相伝観も根強く,南北朝末期ごろまでには足利一門,外様有力守護を中心とした守護の全国的配置もほぼ定まり,任国も固定されて事実上相伝化されていった。南北朝内乱の過程で守護の法的権限も強化され,大犯三箇条に加え,使節遵行権・段銭等徴収権・半済預置給与権などを獲得し,領国制展開の足固めができたのである。

 管国統治者としての立場を強化した守護ではあったが,国内にはさまざまな権力が錯綜し,ために荘園所領の性格も一率ではなかった。幕府料所や将軍権力の直接的基盤であった奉公衆の所領は,早くから守護使不入権を保持し,段銭などの幕府課役を直納する京済の仕組になっていた。さらに有力寺社や将単家昵懇公家などの荘園も守護使不入権,二段銭京済制を獲得し,守護権力の入部を排除する場として存在していたのである。守護使不入地の存在は,守護の領域支配の一元化を阻止する機能を果たしていたのであり,守護の自立化と強大化を阻止しようとした幕府の政策でもあった。時代は下るが,戦国大名今川義元が,1553年(天文22),守護使不入地を否定し,「しゅこの手入間敷事,かつてあるべからず」と法制定したのも,大名権力の前では,領国内の場=荘園所領はすべて均質であることの公言にほかならなかった。

【国衙と荘園の支配】管国内に独自の基盤をもつことの少なかった守護は,諸種の方法でその獲得をめざした。一国支配における伝統的な国衙機構を包摂していくことは,守護にとって重大な課題であった。守護は,目代や在庁官人を被官化し守護代とすることによってこれを実現していく。東国についてみれば,武蔵守護上杉氏は,目代埴谷氏や大石氏を守護代とし,上野守護山内上杉氏も有力在庁官人長尾氏を守護代に登用した。国衙領が守護に安堵されることもあった。越後守護上杉氏は同国国衙領を,山内上杉氏は15世紀初めまでに武蔵,上野,伊豆の国衙職を守護職とともに安堵されている。東海の今川氏も1400年(応永7)駿河,遠江の守護職および国衙職を同時に安堵された。上杉憲実が「凡そ国衙分の事は,守護職に属すべし」と記したような事態が,東国では広くみられたのである。西国では様相は異なる。尾張以西の国衙領はほとんど皇室・公家・寺社などの領有下にあった。尾張は三宝院,播磨は伏見宮家,伊勢,美作,備後,讃岐は万里小路家,周防は東大寺のごとくである。しかしその多くは15世紀になると守護請となり,事実上守護の国内基盤の一つとなった。国衙機構も守護によって包摂されていく。播磨守護赤松氏は,国衙小目代小河氏を被官化し,国衙眼代職に補任し,国衙機構を手中にしていったのである。東西を問わず進展した国衙の掌握は,単に経済的な意味にとどまらない。国衙領は給人給地となり被官関係の形式など軍事的機能も演じたのである。国衙機構の掌握は,伝統的に培われた行政機能を人的にも組織的にも継承したことを意味する。なかでも国衙の保持する大田文の掌握は,守護の領国支配にとって決定的な意味をもった。前代以来の大田文は,荘園・公領の田数,領主の記載された一国土地合張であり,記載田地は公田と称されたが,この掌握によって国内全領域に一国公権を発動させ,また独自の賦課実現の手段を得たのである。

 守護と荘園制との関係も,この大田文を介在させることによってより明確になる。守護は荘園制の原理的部分,すなわち本年貢,公事収取大系には一切関与できなかった。その意味では守護支配は荘園制的秩序に依存したものだった。しかし15世紀になると多くの荘園が本所の手を離れたり規模を縮小する。九条家領推磨国蔭山荘では,380町余が28町弱に,田原荘では205町会が34町程に,また高野山嶺備後国大山荘でも,荘内の一部が本所領として維持されていた。この飛散した荘園は村・郷などの単位で守護の所持した大田文に家臣や給人給地の公田として登録されていたのである。守護による国内荘園所領の再編=領主の移動状況の把握は,大田文面に反映され,また大田文を基準に行われたのであった。荘園制崩壊の実態は,上述のようなことだったのである。

【守護の課役】15世紀に入ると,守護は南北朝期に獲得した法的権限を背景として独自の課役大系を実現していく。段銭棟別銭守護役とか国役と称される諸種の夫役および軍役である。守護独自の課役としての守護段銭は,幕府段銭の徴収権を背景に15世紀前半に実現された。この賦課基準は,幕府段銭とまったく同様大田文公田数であった。幕府段銭が臨時賦課であったのに対し,守護段銭は15世紀中葉から恒常化し,額も反別100文などと一定額になっていった。この段階になると幕府段銭は一国百貫文などと守護請化されていく。守護段銭は,奉公衆所領などの不入地を除き,国内全域に賦課された。ここに一国公権から出発した守護支配の特質が現れている。守護は領国支配者としての内実を得たのである。荘園,国衙領,国人領は大田文公田数の範囲で守護の掌握下にある。守護は年貢,公事とは関係なく別系統の収取大系を成立させ,国内荘園所領を段銭何貫文の土地として掌握し得たのである。段銭の免除は,段銭を知行としてあてがう意味をもち,段銭を媒介とした知行制的関係を形成したのである。給人給地の段銭をまったく別の家臣にあてがうこともできた。この段銭賦課権は賦課基準に質的差異はあるものの,戦国大名へも継承されていったのである。守護は段銭以外にも,諸種の守護役を荘園村落に賦課した。京上夫・倉造夫・カヤカリ夫・番役夫・警固役夫・兵粮持夫・城普請人夫・陣夫など名称はさまざまであるが,労動力としての夫役が中心である。注目すべきは,たとえば1501年(文亀1),播磨国鵤荘へ賦課された坂元城普請人夫役が,公田段別1人30日だったことである。守護夫役の賦課基準も大田文公田数だったのである。

【権力構造と軍役】守護権力の中心は,一族と本貫地で形成された直臣層である。東国や九州のように鎌倉時代以来の守護職を継承した守護家は,家臣層の一定の蓄積があったが,守護領国が典型的に展開した畿内周辺,西国などの守護は,直臣的家臣を任国に配置し,新たに国内領主層の被官化につとめねばならなかった。半済の給与,請負った荘園・国衙領の給地化,段銭の給与などさまざまな方法によってこれを進展させていった。荘園領主の手を離れた荘園所領もその役割を担った。しかし国内には国人一揆や将軍権力と直結する有力国人などの自立権力が存在し,権力構造はなお多元的であった。守護と被官との関係を一般化することはできないが,以下のような軍役賦課の事例もある。備後の国人山内首藤氏は,1432年(永享4),守護山名氏に対し,本領貫高の20分の1,給分貫高の10分の1を軍役として負担した。本領と給分に大きな差のあることがこの段階の特徴であり,領国主としての未完成を示している。また周防国人仁保氏は,15世紀中葉以前に,自己の本領・給地の所領年貢高を〈分限注文〉として大内氏に指出している。大内氏はかかる被官層の指出をもとに〈公方様御帳〉=被官分限帳を保持していた。軍役賦課の基準となったこと間違いなかろう。以上が守護領国制の実態のあらましである。

 応仁の乱以後,斯波,畠山,山名,赤松氏など典型的守護領国制を展開した守護は,守護代以下の有力国人,国人一揆などとの競合に敗れ没落する。その因は権力機清の未熟さ,一国公権から出発したためつねに中央への求心的性格を払拭できなかったことすなわち非在地性などにあろう。しかし守護家の没落と守護支配の培った支配の重みは別である。段銭賦課権など戦国期権力へ継承されたものも少なくなかったのである。

〔参考文献〕永原慶二『日本封建制成立過程の研究』1961,岩波書店

杉山博「守護領国制の展開」岩波講座 日本歴史 中世(2)1963

岸田裕之『大名領国の構成的展開』1983,吉川弘文館