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●朱元璋 しゅげんしょう

アジア 中華人民共和国 AD1328 元

 1328〜98(致和・天順・天暦1〜洪武31)明朝初代の皇帝(在位1368〜98)。幼名は重八,初名は興宗,1352年(至正12)に元璋と改名。字は国瑞,諡は高皇帝,廟号は太祖。その元号にちなんで洪武帝と通称する。いまの安徽省鳳陽県濠州鐘離村東郷の貧農の4男3女の末子。父は五四(世珍),母は陳氏。1344年(至正4),大飢饉と流行病で父母と長兄を失い,同村の古寺(のちの皇覚寺)に入った。ほどなく托鉢僧となり,淮西に3年間の流浪ののちに,1352年(至正12)まで寺で過ごした。この間に彼が遍歴した地方は彰瑩玉らの弥勒仏下生信仰による秘密宗教が盛んで,彼もその影響を受けたといわれるが,それとともに彼はこの地域一帯の豪民とも親交を深めた。1351年(至正11)に興起した紅巾軍に呼応して翌年同郷の郭子興が挙兵すると,同年3月,25歳でその麾(き)下に参じ,たちまち頭角を現して十夫長となり,やがて子興の養女馬氏をめとった。のちの孝慈皇后である。1353年(至正13)9月,同郷の湯和徐達ら24将を率いて士興から自立し,土豪の馮国用国勝兄弟や儒者李善長らを配下に加え,1355年(至正15)までに徐州,和州などを攻略した。すでに紅巾軍に擁立されて米国を建てて小明王を称していた韓林児は,この年,彼を左副元帥とした。彼は紅巾軍のもつ農民に対する影響力を利用するために小明王の部将となり,以後,竜鳳の年号を奉じた。ついで,巣湖の水軍兪廷玉,兪永安と連係して大平を取り,3回の作戦によって1356年(至正16,竜鳳2)3月に集慶を陥れて応天府と改め,江南等処行中書省平軍事に就任し,小明王から呉国公に封じられた。1363年(至正23,竜鳳9),武昌によっていた西系紅巾の漢王陳友諒を翻陽湖に破って地歩を固めた彼は,翌年自ら呉国王と称して属展を整え,ついで1366年(至正26,竜鳳12)には小明王応天府に迎える途次に謀殺して紅巾軍と絶縁した。翌年には,蘇州に呉王を称していた張士試を滅ぼして長江中下流域の経済地帯を手中にした。さらに湯和らに福建,広東を攻めさせ,徐達らを北伐させて反元漢民族主義を明確にし,1368年(洪武1)1月,応天府で帝位につき,明を建設して年号を洪武とした。41歳であった。北伐軍は翌年上都を攻略して北元の動きを封じ,1371年(洪武4)には四川の紅巾軍勢力である夏王明玉珍の遺子昇をくだして,中国全土の統一を完成した。つづいて1387年(洪武20)までにウリャンハイから青海の地を経営し,雲南にまで版図をひろげた。太祖は,元政の弊の除去と漢唐の復帰を標榜し,1380年(洪武13)の胡惟庸の乱を契機に,積極的に行政機構の改革を断行し,中央集権的君主独裁政権の樹立をめざした。一世一元の制を創始し,六部を独立させて皇帝直属とし,五軍都督府に軍事権を分割し,地方権力を三司に分かつなど,権力の分散とその皇帝への集中をはかった。『大明律』,『大明令』以下の法制を整え,賦役黄冊を基礎に里中制を定めて村落自治と課税徴収の責を負わせ,検地を行って,魚鱗図冊をつくり,『教民榜文』,『六諭』を発して道徳のコウヨウ※注1※を奨励するなど,民政に対する努力は大きい。また,24人の子を全国の要地に封建して王府を設けさせて地方守備の要としたが,軍事権のみを授与して土地・人民の支配権を認めず,もっぱら王朝の藩塀としての立場にとどめようとした。即位後,アジア諸国に招撫の諭を発して冊封関係を結んだことは,中華帝国としての明の勢威を高めたが,朝貢形式による片務的な貿易の国家独占形態をとったことと,厳しい海禁政策の施行は,中期以後の明に外禍をもたらすことになった。明朝300年の基礎を1代のあいだに築き上げた太祖朱元璋は,血縁関係,擬制血縁関係に依存して帝室の安泰をはかろうとし,宦官の24衙を皇帝直属として錦衣衛を中核としたスパイ網を全国に張って多くの創業の功臣にも心を許さなかったが,死後かえって靖難の変などの事件をひきおこすこととなった。なお,創業期の朱元璋が白蓮教徒であったか否か,南京応天府中心の朱元璋の体制が,15世紀以降の北京順天府中心の体制にどのように継承,ないし断絶されたか,などについては定説をみない。

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