50音順    検 索

●儒教 じゅきょう

アジア 中華人民共和国 AD 

 孔子を祖とする教育・学問・思想などの内容の総称であり,儒学ともいう。したがって,儒教ないし儒学について知るためには,まず何よりも孔子の教えや学問・思想がどんなものであったかを明らかにしなければならない。孔子は名は丘(きゅう),字(あざな)は仲尼(ちゅうじ),子は男子の美称であり,門弟子の師に対する敬称であった。孔子は周の前552年(霊王20)に魯(ろ)の昌平郷(現在の山東省曲阜)に生まれ,前479年(敬王41)に74歳で没した。

孔子の人物と教学の特徴】孔子の生まれた魯の国は,かつて周公旦(たん)の子が封ぜられた国であった。周公は周初の偉大な政治家で礼を中心理念とする諸制度を整え,800年の泰平のもとを開いた人であったから,孔子は周の政治制度や文化を理想とし,現実にはすでに礼制も秩序も崩壊していた状況をみて,何とかしてもう一度これを復興したいと希求していた。

『論語』に〈子曰く,甚しいかな吾の衰えたる,久しいかな,吾また夢に周公を見ず。〉(述而第7)とあるが,この一文は孔子周公に対する心情を最も端的に伝えている。しかし,孔子の理想とする周の礼も周公の樹立した政治制度も実現することはできなかった。ただ孔子は教育者としては成功し,その教えを受けた弟子は3,000人に及び,そのうち深く学芸に通じた者が72人もいたと『史記』孔子也家には書かれている。孔子の人物や学問がどんなものであったかは,孔子の弟子たち(孫弟子あたりであろうとされる)が編集した『論語』に最もよくその言行や教学の内容が記されている。孔子が最も愛し,また人物・学問ともに最も優れていたとされる顔回(がんかい)は思わず讃嘆の声を上げながら〈これを仰げばいよいよ高く,これに斬り込んでいってもかたくて歯が立たない。師は全くつかまえどころがないから,あきらめてやめようと思っても,人を順序立てて教え導く師の魅力にひかれてそれもできない……。〉(子罕第9)という意味のことを述べて孔子の人物の偉大さをたたえている。孔子は人間愛に満ち,自然や鳥や獣(けもの)に対しても優しい心づかいを示していた。また弟子たちに〈わたしは年寄りには安心されるように,親しい友人とは互いに信じ合い,年若い者からはなつかれるようになりたい。〉(公冶長第5)と自分の志を述べ,〈釣糸をたれて魚をとることはあっても,大網で一ぺんに魚をとることはせず,ねぐらに宿っている鳥までもとるようなことはしなかった。〉(述而第7)と記録されている。さらに孔子の人物ないし人柄を端的に物語る記録として,弟子の子禽(しきん)と兄弟子の子貢との次の問答がある。〈夫子(先生)はどこの都に行かれても必ずその都の政事にあずかっておられるが,これはそもそも先生が自ら求められるのか,それとも先方からそうさせられるのでしょうか。〉との子禽の問いに対して,子貢は〈夫子は温良恭倹譲もってこれを得たり。夫子のこれを求むるや,それこれ人のこれを求むるに異るか。〉(学而第1)と答えた。ここにいう温良恭倹譲とは,孔子は心の温かい人で,すなおに物事を行い,相手と和して逆らわず,つねに慎しみ深く,自分よりもまず人を立てる−という意味で,『論語』全編を通して最も端的に孔子の人物像を物語ったことばである。ところで,このような人柄であった孔子が弟子たちを導いた教学とその特徴はいかなるものであったか。孔子はそれ以前に残されていた文化遺産を取捨して弟子たちに教えていた。その教材のおもなものは,従来の研究によれば,儒教の経典として後世尊重されるにいたった『六経(りくけい)』つまり詩,書,礼楽,易,春秋のうちの,詩,書,春秋ぐらいで,礼や楽についてはまとまった典籍はなく,何らかの具体的な物や事柄だけがあって,それを用いたのだろうとされている。詩とは民謡や詩人の詩を集めたもの,書は古聖王の詔勅や訓戒を集めたもの,春秋は魯国の年代記である。易については『論語』のなかにこれに関する記録があって,論争の対象にされており,明確にはいえないが,少なくとも易の古い形としての古筮の資料はあって,孔子がこれを利用したことは考えられる。さらにまた,『論語』には〈子四つをもって教う。文・行・忠・信〉(述而第7)とある。文はいわゆる学問のことで上に述べた典籍の意味,行は日常の実践,忠は己の心を尽くすこと,信は他者に対する言動に実があることである。『論語』を繰り返し通読すれば,これら4者が個別に教えられたのでなく,つねに関連的に,現実的具体的に説かれており,しかも弟子たちに対して個人的・個別的に時処に即して教え導いている。以上からしてもわかるように,孔子は周の制度に政治の理想があると考え,礼を重んじ徳をもって国を治めるべきと主唱し,そのためにはまず第1に自己自身の修徳に励み,しかるのちに人の指導者として立つべきことを説いた。

孔子の思想】『論語』全編を繰り返し読んで気づくことは,孔子が最も主唱したのが仁の徳であるが,これと並んでしばしば説かれるのが言・行と上に述べられた忠・信であり,さらに義・礼である。しかもこれはつねに単独で説かれるよりも,相たがいに関連していわれる場合が圧倒的に多い。孔子は“君子”を“徳の修まったよくできた人”としてあげる。その君子になるための修徳は,つねに“己を修め持すること如何にあるべきか”ということと,そのような己(おのれ)が“他者に対して如何にあるべきか,如何になすべきか”という2方面にわたって説かれている。いわゆる「修己治人」である。言,行,忠,信,義,礼は,まさに修己治人ができ,君子となるための徳を説いたものであり,そして仁はその完成であり,総合された徳といってよい。言と行については〈先ず行う。その言は而る後にこれに従う。〉(為政第2)〈君子は言に訥(とつ)にして,行いに敏ならんことを欲す。〉(里仁第4)とあるように,行が先んじ,あるいは行に伴う言でなければならぬとされた。しからばその行は,単に言に先だつ行でよいのか,あるいは口数が少なく行に敏であればそれで君子人かというとそうではない。行の伴わぬ言,行に先んずる言は,心に実なき虚であり,巧言令色であり,オモネリ※注1※であるとされる。では,孔子における君子人の言行はいかにあるべきか。そこで注目しなければならないのが,孔子のしばしば言及した忠,信,義,礼である。〈子曰く,忠信を主とし,己に如(し)かざる者を友とするなかれ…〉(子罕第9)という。忠とは,己の心を一点に集中して専一ならしめること,信はまこと,実をもってすること。したがって,忠信は,“わが心の限りを尽くして,ひたすら言行一致のまことを実現すること”である。これら言,行,思,信は,他者に対する言動そのものよりは,どちらかというと自己自身にかかわる“対自的な徳”である。この己を修める対自的な徳は,人を治める“対地,対人の徳”にどのように展開されるか。これについて〈子張徳を崇(たか)くして惑いを弁ずることを問う。子曰く,忠信を主とし義に徙(うつ)るは,徳を崇くするなり……〉(顔渕第12)という。徳をたかめていくには「忠信を主とする」ことから「義に徙る」ことが必要だというのである。義にはことのよろしきところ,われもよし,人もよしとするところである。人は先にも述べたごとく,心の限りを尽くして言行一致のまことを尽くしながら,さらに自他ともに義とし是とするところにわれとわが身をうつしていく。それによって開かれた自己,対化的連関(人間仲間)における自己へと,自己自身の徳がひろがり深まっていくのである。その意味で,義はまさに対地・対人の徳であり,人間仲間に要請される徳である。では礼とは何か。『論語』には孔子の弟子有若の言が録されている。〈有子曰く,礼の用は和を貴しとなす。先王の道もこれを美となす。小大これによるも,行われざるところあり。和を知って和すれども,礼をもってこれを節せざれば,また行うべからざればなり。〉(学而第1)と。礼がはたらくと人間仲間に和が実現される。古来の聖王もみなこれを美として小大となくこれによって政治を行った。しかしそれでもなおまだ十分ではない。和ということが人間仲間に実現されても,礼のほかの一面,つまり同じくその礼によって,自と他,人と人とのあいだに節(けじめ)をつけなければ,礼は完全に行われ,実現されたことにならない,という意味である。“和する”ということは人と同じになることではない。自と他のあいだにけじめをつけることが,真に相手を相手として認め,相手を敬するゆえんである。だから孔子は〈君子は和して同ぜず,小人は同じて和せず。〉(子路第13)といった。いたずらに個としての自己の立場やあり方を忘れて他者と雷同するのは君子人でない,ともに真の和の実現ではないという。個の主体性がしっかりと確立されていて,しかも相手と和し相手と重なるところも発見し創造していく,そのような有徳者を孔子は期待していた。かくして,礼もまた対地・対人のなかで実現されていく徳であるといえよう。ところで「忠信を主とする」ことから「義に徙り」「礼をもって和する」だけでなく「礼をもって節し」さらに「和して同せざる」対地・対人の徳を真に実現していくためには,これらの徳に内包される論理を知的に理解しただけではまだ不十分である。それを実現していく,いわば道徳的エネルギー,原動力は何か。〈子曰く,参(しん)や吾が道は一もってこれを貫く。曽子(そうし)曰く,唯(い)と。手出ず。門人問うて曰く何の謂(いい)ぞや。曽子曰く,夫子の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。〉(里仁第4)〈子貢問うて曰く,一言にしてもって終身これを行うべきものありや。子曰く,それ恕か,己の欲せざるところ人に施することなかれ。〉(衛霊公第15)とある。この両章の孔子の発言をみると“わが一貫の道”“終身行うべき一言”は,忠恕とか恕として示されている。その内容は「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」とされている。朱子によれば,忠とは「己を尽くすこと」,恕とは「己を推すこと」と解せられる。自己自身の心を十分につききわめること,そしてそれを推しひろげて他者に及ぼすこと,それが忠恕の意味である。その心とは何か。それが「己の欲せざるところ……」であって,“自分が本当に欲しないこと,いやだと思うことは人もそうであろうと思ってそうしない。”という意味である。また,〈それに仁者は己立たんと欲して人を立たしめ,己達せんと欲して人を達せしむ。〉(雍世第6)と孔子はいう。自らが立ち達せんと欲するとき他者もまたそうであろうと他者を思いやり,まず他者を立て,達せしめるというのである。要するに,仁者とは単に自己の修徳に努めるのみでなく,つねに他者とともによく生きようとしてこれを具体的に実践に移していく達徳の人である。言,忠,信の対自的徳から,義,礼の対他・対人の徳に高められ,さらに他者とともによく生きる普遍的総合的道徳原として仁が要請されていた。仁はやがて「愛の理」「心の徳」と朱子によって説かれたが,要するに人倫の理法を自得し,かつそれを具体的に行為に証示する心の力としての徳とされたのである。孔子が仁を問われたとき端的に「人を愛す」と応え,知を「人を知る」ことだと応えた記録(顔渕第12)をみれば以上のことが理解できるであろう。孔子が弟子たちを教育し,自己の思想を提唱したその根幹は,政治の場では為政者が何よりも徳をもって人民を教導すべきことを,また対自的ないし対他的な徳については言,行,忠,信,義,礼を,さらにその総合として仁道を説いたことに尽きる。孝弟という身近な家族的道徳も,結局は上のごとき修徳の範囲内のことであった。

【儒教思想の発展(1)】孔子を祖とする魯の学問は,その後多くの弟子たちによって継承され,思想的にはしだいに体系的に整備され深められていくとともに,各地に分散して特色ある思想家(いわゆる儒服の徒)が輩出した。その代表的人物に孟子(前372ごろ〜前289ごろ)と荀子(前298ごろ〜前235ごろ)がある。孔子の教学,思想を最も正統的に発展させたのが孟子である。孟子の政治思想の特色は,仁徳によって国を治める“王道”と力によって治める“覇道”とを区別し,徳治国家の実現を主唱したことである。それは〈力をもって仁を仮る者は覇,覇は必ず大国を有つ。徳をもって仁を行う者は王。王は大を待たず。……力をもって人を服する者は,心より服するに非ず。力贍(た)らざるなり。徳をもって人を服する者は,中心悦びて誠に服するなり。〉(公孫丑章句上)に端的に述べられている。孔子の十全なる継承思想である。さらに孟子は“易姓革命(えきせいかくめい)”の論を唱えた。〈仁を賊(そこな)う者はこれを賊という。義を敵う者はこれを残(ざん)という。残賊の人はこれを一夫という。一夫の紂(ちゅう)を誅するを聞く。未だ君を弑(しい)するを聞かざるなり。〉(梁恵王章句下)とあるように,徳を失い人民を苦しめる君主を易(か)えることを是認したことばである。また孟子は人倫には五つの主要な人間関係があり,これを充足し確立することを主唱した。いわゆる五輪五常で〈父子親あり,君臣義あり,夫婦別あり,長幼序あり,朋友情あり〉(滕文公章句上)である。また,孔子には仁の具体的実践方法として忠恕を説いたが,孟子はさらに深めて,人間には(本)性というものがあり,この生まれながらの本心がはたらくと「人に忍びざるの心」として発動するとし,この心を「惻隠(そくいん)の心」といった。これを中心に,人間には「羞悪(しゅうお)の心」(自分の非を恥じ,人の非を憎む心),「辞譲(じじょう)の心」(ヘりくだり,人に譲ずる心),「是非の心」(是を是とし,非を非とする心)があるとした。そして惻隠の心は仁の端(きざし,糸口),羞悪の心は義の端,辞譲の心は礼の端,是非の心は智の端といい,人間にはこの「田端」が本性的に備わっているから,これを守り育てて,仁,義,礼,智おける「諸子百家」のなかの1派であって,ほかに墨家(ぼくか),法家,名家,道徳家,縦横家,雑家,農家,小説家,陰陽家など多数の学派があり,それがまた分派していた。確かに孔子の人物は偉大で力量もあり,弟子も多数いたが,まだ諸子のなかの1派であったことは否めない。ところがやがて秦の始皇帝が戦国末期に流行した法家思想を信奉し,李斯(りし)を重用して厳しい法治主義の政治体制を設け,法家以外の諸子の典籍を焼き捨てさせた。いわゆる焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で,典籍を焼くとともに多くの儒生を穴埋めにした。やがて漢がおこるや挾書(きょうしょ)の律も除かれ,秦火の災厄を免れて隠されていた典籍も世に出てくるとともに,四方に隠れた白髪の儒生も教学を開始し,しだいに儒学が民間に浸透すると同時に,やがて政治の基本理念の確立とその実現に資するため,儒学が国学ないし国教の地位を得るようになった。孔子のころには詩と書と春秋ぐらいがまとまった典籍として教材に用いられていたにすぎなかったが,この時代にいたって,易,書,詩,礼,春秋が「五経」として儒教の経典に数えられるようになり,その体系的学問的整備がなされた。そして,経典の解釈が進み,いわゆる“訓詁の学”が成立した。武帝(在位前141〜前87)が董仲舒(とうちゅうじょ)の上言にもとづき,“五経博士”を置いて,それぞれの経書を専門に研究させ,経学の思想をもって政治の理想と定めたことは,儒教発達の一時期を画する史実である。門流たちに聖人として尊崇されていた孔子が,国教となることによって,帝王および人民の先師として尊敬されるようになった。

【儒教の発展[2]】前漢から後漢に推移するに及び,儒教は経学ないし訓詁的学問が盛行し,道徳節義を高唱する気風があったが,やがて漢が滅び魏晋南北朝時代にいたると概して老荘の学問思想が盛行し,儒教は漢代のそれの余風を保ったにすぎなかった。仏教がそのあいだに移入され,一層ふるわなかった。しかるに唐王朝が成立するや,再び太宗(在位627〜649)は学術の統一に着手し,“五経正義”をつくらせて経典解釈を統一した。これも儒教発展史の一大画期であったが,反面経学研究は型にはまり一大障害となった。しかし唐中葉以降には仏教・老荘思想に反発し伝統的な正学としての儒教を再興する動きが出てきた。韓愈(かんゆ,768〜824)とリコウ※注2※である。韓愈は仁や性について自己の思索を開陳し,リコウ※注2※は『復性書』を書き,ともに排仏老荘を高唱した。これは歴史的には次の宋代の新儒学の先駆的役割をなすものである。やがて唐が滅び5代50余年の混乱期のあと宋王朝という統一国家が成立した。宋代の儒教はこの統一国家体制を正統化し,治政に実効をあげるための実学的側面と,深遠な形而上学的思惟の展開,さらに道徳論,人間論の新しい展開をもって特徴とする。これらは総称として宋学・宋代性理学・道学などといわれ,正統儒学の系譜までがつくられた。コエン※注3※(993〜1059)は易を,孫復(992〜1057)は春秋学を説き,石介(1005〜1045)は文章の幣と仏老の害を主張し,宋学の先駆として多くの門弟を教えた。これらの学問の流れを受けて周惇頤(しゅうとんい,1017〜1073),張載(ちょうさい,1020〜1077),テイコウ※注4※(1032〜1085),程頤(ていい,1033〜1107)らの学者が輩出した。彼らはそれぞれ個性的な思想を打ち出したが,概して宇宙の根源を“太極”とか“道”ないし“理”に求め,現象する存在は陰陽五行の変化交替によってなるとし,これを人間存在にも妥当させて,人の本性を宇宙ないし存在の根源の把握と人性の本源の自覚・体得とは同じく人間の営為の所産として位置づけた。宋学の集大成は南宋の朱熹(しゅき,1130〜1200)によってなされた。朱子は北宋時代の上記諸儒の樹立した思想のうちとくに程頤の思想を最も直接的に継承し,後世“朱子学”として尊重される一大体系を樹立した。ほかの学者もそうであったが,朱子はとくに伝統儒学の正統性に着目し,これを継承発展させるために,『大学』『中庸』『論語』『孟子』を“四書”として重視し,入門者のために注釈を付し,章句に分けて学びやすくした。朱子のこの業績は,漢代の古注に対して新注といわれて後世に尊重された。また,朱子の“居敬窮理”“格物致知”に関する教説は宋代新儒を代表するもので,明代にいたって王守仁(1472〜1528)の思想と対立した。守仁は朱子の事々物々に理がありとする説に反論し,あらゆる理は心にあり,心がすなわち理であるから,物に格(いた)って理を窮めるのではなく,わが心を正すことが物を格(ただ)すゆえんだとした。私欲を克服し心を純粋に働かせれば,物の理は心の理として把握できるといった。それは晩年に“致良知”の説として完成される。王守仁の思想はきわめて実践意識の強いもので,朱子の学説と異なり,主観的な頓悟の誤謬を生じさせ,俗流化した。明代末期には士大夫の学として再び朱子学が見直され,やがて明末から清初にかけて“経世数用”の学が盛行した。異民族支配下の清朝では考証学が儒教研究の中心となり,朱子学も批判の対象とされ,漢代の学問に帰る動きも出た。やがて清朝中期以降には西洋の文化,学問が影響を与え始め,西欧諸国の中国侵略と相まって国教的な儒教も厳しい批判の対象とされるにいたり現代の革命期を迎える。一時儒教は不要有害なものとされたが最近では再び注目されるようになり,孔子教学はいぜんとして滅亡していない。東アジア地域では,朝鮮半島に高麗末期とくに朱子学が受容され,李朝前期には李滉(りこう,1501〜70)が出て朱子学を受容しつつ個性的な“敬の哲学”を確立した。日本の江戸初期,彼の学問は受け入れられ,藤原惺窩林羅山,山崎闇斎らは李滉の学問を通じて朱子学ないし儒学を学び取り,やがてこれを日本に定着させた。江戸初期の日本儒学が“敬一点ばりの思想”といわれるのは,多く李滉の影響を受けたからともみられている。以上のように,儒教ないし儒学は,孔子教学の発展として中国のみではなく,東アジア思想史の中心的役割を担いつつ展開したのであって,今日のこれら地域の人々に多様な形で生き残っており,学問的研究の対象ともされている。

〔参考文献〕狩野直喜『中国哲学史』1957,岩波書店

高橋進『朱熹と王陽明』1978,国書刊行会

相良亨『近世の儒教思想』1968,塙書房

00