●儒家 じゅか
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孔子学派によって形成された中国古代の思想家たち。家族道徳(孝・悌)にもとづき,仁・義・礼・智を重んじた。儒家はいにしえの聖賢の教えを尊び(尚古主義),“礼”“楽”や『書』『詩』を学んだので,それはやがて五経(「易」「書」「詩」「礼」「春秋」)として儒学の聖典となった。儒学は道徳を根本とした政治論(徳治主義)をとなえて戦国時代に活躍し,優れた君臣関係論(封建道徳)を形成したので,漢代に入ると国教として重んぜられるようになった。儒家の祖とされる孔子(仲尼)は春秋時代後期,魯の国に仕えた政治家である。当時,魯においては三桓氏(魯桓公の3人の公子を祖とする家柄)と呼ばれた李孫氏,仲(孟)孫氏,叔孫氏らが権力を握り,君主を圧倒して,政局はたびたび混乱した。孔子は政治家として,これら貴族の専権を抑えようとしたが失敗し,祖国を追われて諸国を流浪し,晩年にいたってようやく国に帰り,以後,弟子たちの教育に専心したという。孔子が貴族社会に成立した礼・楽を尊びながら,他面において,その形式主義を厳しく批判し,礼・楽の精神面を強調したのは,こうした彼の政治的経験による所があろう。したがって,その説く家族道徳とは,このころ政治の重要な担い手となってきた新興支配層(士)の家族倫理であり,これを以て君臣の関係を律し,貴族政治の改革をめざしたものであろう。孔子はまた「天命」を信じたが,人は“人道”を尽くすことによって,自ら天道にいたるべきものとして,「人性」論には深く関わることはなかった。その点はきわめて現実的な道徳主義者である。その徳目とされるものも君臣(忠),父子(孝),兄弟(悌),夫婦(和),朋友(信)などの社会的人間関係の秩序(正名)を基準として考えられ,社会(宗族的社会)的正義を実行する人物(君子)が重んじられた。君子の道徳の理想が“仁”であり,政治は君子による“仁政”が行われて初めていにしえの聖賢の治にいたるものと主張された(徳治主義)。孔子の弟子には「克己復礼」を以て名高い顔渕や,智者子貢,義人子路,文を以て知られる子貢,子夏など多彩な人物がおり,その教えを各国にひろめたので,戦国時代には儒家として有力な集団が形成された。また孔子の理想は『論語』にまとめられ,のちに儒教の経典となった。
戦国中期の儒家を代表するのは孟子(孟軻)である。彼もまた魯国鄒邑の人である。戦国時代は君主と官僚による政治,有力貴族らの養客の風潮,大都市を中心とした庶民の活躍といった新しい勢力がおこり,伝統的宗族秩序の動揺はますます激しく,これに代わって「任侠的」と呼ばれる社会関係が一般化した。儒家もこうした社会のなかで学団を形成し,諸侯のあいだに遊説して,仕官を求めた。したがって孟子は君主政治のあり方や士君子・官僚の道徳論を主眼として,儒家学説を展開した。彼は徳行によって天命を受けた天子(王者)による支配(王道政治)を理想とし,王者は賢者を尊んで人民を指導するものであるから,“士”たるものは徳に励んで賢者にならねばならぬと論じ,もっぱら利禄を求めて諸侯のもとに集まる士の風潮を批判した。孟子は孝悌にもとづく「仁義」を強調し,仁義による政治が王政であり,仁義を志すことが士のつとめだという。王といえども徳がなければ天命を失うと考え「易姓革命」を論じ,「王,覇」の別を主張した。この王道は民生の安定を実現することである故に,「民を尊しとなす」といい,名高い「井田法」を説いた。また彼は「人の性は善なり」と主張し,人の徳は天与のものとして備わっているが,欲に蔽(かく)れてそれを見失うのだから,修養に努め,「浩然の気」を養うべきであると主張した。その説は「孟子」7巻に伝えられる。
戦国末期に出て儒家の学を集成したといわれるのが荀子(荀況)である。荀子は趙国の出身で,斉の“稷下の学”の祭主となり,のち楚の蘭陵令となった。荀子は天命を信ずる孟子と異なって,天は意志なき自然力であり,人間社会と区別すべきこと「天人の分」を主張した。人間もまた自然界の一部ではあるが,「知天」(知識)によって自然界の規律を利用し得るといい,前期儒家の神秘性を排し,人道主義の立場を確立した。彼によると,人の性情は自然なるものであるが,そのままでは利欲を求め,互いに争奪を行って社会の秩序を乱すから悪であるとし,性悪説を称え,人間は“礼楽”(人道)を学ぶことによって,善にいたらねばならぬとした。荀子は人間を社会(群)的存在と考え,社会は上下の秩序を守ることによって治まるものであるから,聖王の定めた(偽)国家的秩序(礼)に,人々は従わねばならないという。この場合,君主は“礼”の運用をつかさどるものであり,賢能なるものを官僚として,人民を教化しなければならない。官僚は君の臣として,身分に従って忠を尽くすこと(君臣道徳)が要求される。この政治論は,やがて君主の権力的政治(覇道)に接近するもので,“礼”の下に“刑,法”を容認することになる。荀子の門に,李斯,韓非の徒が出現するゆえんである。荀子の論は,宗族的政治社会の動揺によって生じた社会の混乱を,当時形成されつつあった君主と官僚を中心とする国家体制によって安定させようとしたものといえる。その論は『荀子』20巻に伝えられる。
この後,儒家は秦の始皇帝の思想統制によって弾圧されたが,漢王朝の成立とともに復興し,叔孫道,レキ※注1※食其,陸賈,婁敬らの活躍によって政権に接近し,道家や法家の思想をも取り入れ,やがて董仲舒らによる公羊学派の成立をみるにいたる。儒家の経典は,五経のほかに,『論語』『孟子』『荀子』『孝経』などが戦国から漢初のころにつくられ,またもと『礼記』中に含まれていた『大学』『中庸』も独立して尊ばれるようになった。
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