50音順    検 索

●宗門改帳 しゅうもんあらためちょう

AD 

 宗旨改帳,宗旨人別改帳,切支丹宗門人別改帳などともいう。江戸時代の戸籍。最初はキリスト教摘発を目的として作成されたためこのような名称がある。国民はすべて仏教寺院の檀徒でなければならないという寺請制度によって,毎年,提出させられた。改帳は町・村・組ごとの庄屋・町年寄・名主などによってつくられ管内の宗派,寺院名の下に,家族単位で一人ひとりの氏名と年齢が記入された。そしてその寺の檀徒であるという証明として,各戸ごとに寺判を押し,支配役所に提出した。人別印は家頭が自印を押し,家族は管印を押す例,男子のみが家頭印を代用する例,男子のみそれぞれ自印を使用する例など地方により異なっている。改帳ごとに切支丹でないこと,切支丹を発見したら訴えること,違反したら罰を甘受するという誓詞がついたものもあった。九州地方ではこの改帳が絵踏台帳も兼ねていたので,宗門改絵踏帳,宗旨改絵踏帳などと記した場所が多い。宗門改帳が作成されるようになった最初の時期は,現存する史料でみる限り1634年(寛永11),肥前国平戸町『芦町人数改之帳』(九州大学文化研究所所蔵),1638年美濃国多芸郡下印食村『伴天連いるまん吉利支丹御法度御改帳』(国立国文学史料館所蔵),1642年近江国滋賀郡比叡辻村『宗旨改帳』(明治大学刑事博物館所蔵)などにみられる時期である。しかしこの時期のものは全国でも数少なく,宗門改帳の作成業務が本格化するのは寛文年間(1661〜72)にいたってからである。宗門改帳は1665年(寛文5)には数多く作成されている。これは前年9月幕府がその作成を命じた結果,翌年に提出されたものである。いくつかその例をあげてみると,たとえば相模国では足柄上郡千津嶋村宗門改帳,足柄上郡山北村宗門改帳,高座郡羽鳥村宗門改手形(以上は『神奈川県史』近世編所収),常陸国では水戸藩領に限ってみても,又熊村巳ノ宗旨御改帳,吉田台町吉利支丹宗門御改帳扣,本四丁目吉利支丹宗門御改帳,原石川村宗旨改帳,那珂郡下桧沢村宗門改帳(以上は『水戸市史』中巻1)などがあげられるし,このほかの地域でも1665年のものは広範囲に散見できる。そしてこれが幕府の手によって統一的に書式が決められるようになるのは1671年ごろからのことである。1673年になると宗門改はさらに厳しくなり,キリシタンとして摘発された者や,ころびキリシタンの者などの親子妻,さらには親類縁者にいたるまで本籍まで書き上げさせるようになる。1687年(貞享4)7月には,ころびキリシタンの子孫に対して『吉利支丹類属戸籍帳』作成を命じている。それにはいつどこで捕われ,どのような処罰を受けたか,ころびキリシタンになったのはいつからか,罪を許された理由は何か,その後の職業は何かなどについて一人一人記入されている。また以前キリシタンであった者が死去した折は〈死骸は塩詰めに仕りさし置き切支丹奉行の差図次第に仕るべき事〉と命じている。また類属の者については〈死骸等吟味を遂げ,別条これなきにおいては檀那寺にて取置その趣を帳面に記し,毎年7月,12月両度に切支丹奉行に差出し,帳面除かせ申さるべく候事〉と,追跡調査も徹底して行った。このように江戸時代を通じてキリシタン禁圧政策は宗門改帳作成の時期ごとに強化されていった。一方,宗門改帳作成業務は,最初は寺院の僧侶が行っていたが1700年ごろからは村役人の手に移された。またキリシタンに対する恐怖が失せるとキリシタンに対しては形式的な調査となったが,人別帳は毎年つくられ,作高や家畜数が記される地域もあり,完全に戸籍の移動調査になっていった。1872年(明治5)の壬申戸籍の段階で宗門人別帳形式の戸籍は終息し,1877年から現在の戸籍に改められた。明治以後の民政の特色に戸籍の完備があげられるのも,人別帳の風習によるとされる。