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●宗門改 しゅうもんあらため

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 江戸幕府が,島原の乱(1837〜38年,寛永14−15)の後,キリシタン禁制を徹底化させるため,信徒の摘発を企図して設けた制度。キリシタン奉行(のちの宗門改役)をおいて,各人の所属する宗教を検査,信徒の探索,糾明を行った。

【キリスト教禁止令と宗門改】キリスト教の伝来以後,キリシタン信徒は年をおって増えた。秀吉は信長の保護政策から一転して,1589年(天正15)「日主は神国なり」にはじまる禁教を発布した。だが,貿易の拡大と不可分の関係にあったキリスト教を完全に分離することはとうていできなかった。秀吉のこの貿易政策を受け継いだ徳川家康は,はじめ禁教に厳しくなかったが,その間に信徒は上層の武士から庶民の末端におよび,地域も九州全体,四国,中国,近畿,北陸,関東にまで広がった。1600年ごろに30万人といわれた信徒の教は10年後には70万人にふくれ上がった。家康の側近くに仕える男女のなかにも信徒がいることがわかり,キリシタン大名有馬晴信の,同じくキリシタン岡本大八との対立,長崎奉行暗殺計画露見事件を機に,家康は1612年(慶長17)江戸,駿府,京,長崎など幕府直轄領にキリスト教禁止令を布告した。翌1613年にはそれを全国に拡大,とりわけ信徒の多かった京都の所司代板倉勝重長崎奉行長谷川左兵衛,有馬の新領主晴信の子直純に,それぞれ管轄内の厳重な取締りに当たらせた。なかでも有馬(島原)地方は,洗礼名をプロタジオといい,キリシタン九州3大名(大村純忠,大友宗麟)の1人で,ローマに使節を送ったほどの晴信の領地であったため,多くの信徒がいた。そのため直純は,江戸から僧幡随意(ばんずいい)を送りこんで,領民の仏教への改宗と信徒に対する激しい弾圧を行わせたりした。それでも全体としては,家康の存命中は,キリシタンを禁止し宣教師を国外追放しこそすれ,流血の処分にまではいたらなかった。しかし2代秀忠になると禁教は厳しさを増し,数回にわたる厳重な取締りを諸藩に命じ,それと同時に信徒の探索を効果的・組織的に行うために宗門改役を直轄地に設置,やがて諸藩にも置いた。ここに宗門改めは本格化した。

【宗門改めの内実】1635年(寛永17)の島原の乱の後,キリシタンに対する弾圧は一段と強化された。そのためになされた宗門改め=宗教統制の内実は次のようなものであった。[1]多額の賞金を懸けて宣教師や信徒を訴えさせる,[2]踏絵によって心証を検察,起請文(きしょうもん)を書かせて神仏に誓約,改宗を強制する,[3]民間の隣保組織として五人組制度を整備,隣人間の相互監視と連帯責任を強化することによって,キリシタン信徒を摘発ないしは未然にチェックさせる,[4]町年寄に命じて各家の家主に家族全員の名前,生年生地,宗旨,あるいは婚姻した妻の出自,嫁いだ日付,奉公人の男女の奉公先などを明らかにさせる(宗門人別帳という)ことで,キリシタンについての調査を厳密にした。一族のなかに信者が発見された場合には,男子7代・女子4代にもわたって,婚姻・生死・奉公のゆくえが監視されたのである。こうした宗門改めの過程にあって,既成仏教寺院や僧侶の果たした役割は大きなものがあった。たとえば,島原の乱後,天草代官となった鈴木重成は,曹洞宗の僧であった兄の正三を天草によびよせ,仏教による領民懐柔を依頼している。正三は,『破吉利支丹(はきりしたん)』を著してキリスト信仰は誤りであると教化し,重成は,天草内の寺院・神社を保護して寺社領を与えている。仏教を利用することによってなされたキリシタン取締りの決定版は,[5]寺請(てらうけ)制度であった。これは,当人がキリシタン信徒ではなく檀徒であることをその檀那寺に証明させた制度で,これによって人々はいずれかの仏教派寺院の檀家であることが義務づけられ,それを証明する寺請証文(てらうけしょうもん)は,強力な宗門人別帳のかたちをとって全国的な宗教支配を貫徹するにいたった。江戸時代を通して,治安警察の補助的機能をになう戸籍の役割を果たしつづけたのである。

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