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●自由民主党 じゆうみんしゅとう

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 1955年(昭和30)11月15日に日本民主党と自由党が合同して結成した保守政党。終戦直後の1945年末までに日本自由党日本進歩党,日本協同党が保守政党として誕生した。その後離合集散が繰り返された後,1951年鳩山一郎が次期政権をめぐり吉田首相と険悪になり,保守政党界に混乱が生じた。1954年自由党鳩山派,改進党と日本自由党とともに,鳩山を総裁とする日本民主党を結成した。1955年2月,衆議院選挙は革新政党が3分の1以上を占め,社会党統一の気運が高まり,議会内での保守勢力は不利な立場に追いこまれた。政治資金源である財界からの保守政権安定の強い要望もあり,合同が具体的に検討されるようになった。しかし総裁の人事という難問に,民主党は鳩山首相の総裁確保を主張し,自由党は総裁公選を主張して譲らず,総裁問題はたな上げのまま合同を迎え,参議院118名,衆議院300名という保守単一政党が成立した。しかし総裁は空席のままで,鳩山,緒方竹虎三木武吉,大野伴睦の4名が代行委員として出発したが,56年緒方が急死すると旧自由党系の総裁候補者がいなくなり,4月に鳩山が総裁に就任した。鳩山は日ソ国交回復,国連加盟を実現し引退。この間に三木武吉の死去によって,派閥の再編成化が進み,岸信介石橋湛山,石井光次郎のあいだで後継者をめぐる主導権争いが生じていた。12月の党大会では,石橋湛山が決選時で石井派の支持をうけ7票差で総裁に就任し,石橋内閣が成立したが,病気のため57年1月に辞任。岸が後継総裁・首相となった。1958年5月の衆議院選挙では287名の過半数を占め第2次岸内閣が成立したが,警職法の改正,勤評問題,安保改定などで国民の反対運動が盛り上がり,1960年7月に退陣。後任をめぐる党内の派閥抗争は激化し,「8個師団」と呼ばれる派閥が形成された。池田勇人,石井光次郎,藤山愛一郎の3者が立候補した総選公選の結果,池田が当選し,内閣を組織した。池田は安保問題を収拾し,高度経済成長政策を唱え,所得倍増計画を推進した。1964年10月池田が病気による辞意を表明すると,再び派閥抗争が活発化し,官僚派の佐藤栄作と党人派の河野一郎が対立したが,党内分裂をおそれた党首脳による工作の結果,佐藤が総裁に就任した。佐藤内閣は日韓条約の締結を強行,安保条約の自動延長のほか,沖縄の本土復帰を実現し辞任した。1972年の党大会で田中角栄が総裁に選ばれ,日中国交回復を果たしたものの,日本列島改造論で諸物価の高騰を招き,公害など国内政策にも失敗した。その上,田中をめぐる金脈がとりざたされ,辞任。後継は党のイメージアップをはかるため,椎名副総裁によって三木武夫が推され,1974年に就任。三木は党の近代化や独禁法改正をめざしたが,いずれも党内の反発にあい,ロッキード事件で田中が起訴されたことで,挙党体制確立協議会が発足し,三木に退陣をせまった。1976年河野洋平らが離党し「新自由クラブ」を結成,12月の総選挙で自民党は議席数を減らし,三木は辞職した。続く福田赳夫は,保守勢力の危機をあおって党の結束をはかったが,1977年の参議院選挙で保革の差は縮まるばかりだった。つぎに大平正芳が総裁となったが,1979年10月の総選挙後,党内は主流派(大平・田中派)と非主流派(福田・中曽根・三木派)の対立が深まった。非主流派は「自民党をよくする会」を結成して,主流派に対抗し,首相候補に福田を立てた。議会史上初めて同一党から2人の首相候補者が出るという事態になった。17票差で大平が選ばれた。衆議院でKDD事件などで世論の政治姿勢の追求にあい党内は分裂し,社会党の提出した内閣不信任案によって,政治史上初の同日選挙が行われることになった。しかし運動中に大平は急死し,同日選挙は安定過半数を超え,議席を増す結果になった。後任総裁には鈴木善幸が選ばれた。1981年11月の総裁選挙で中曽根康弘が総裁となり内閣が組織された。現在党員数は約100万。年齢,職業にかかわらず広い支持層をもつ。派閥の連合体的性格が強い。現在は総裁を公選により決定している。