●自由民権思想 じゆうみんけんしそう
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人民の政治参加を要求するさまざまな考えの総称で,個人主義・自由主義・天賦人権説・人民主権論・抵抗権・革命権などの主張を含み,具体的には国会開設,憲法制定,天皇や官僚の権限削減,専制政府打倒,共和制樹立などを目標に掲げた。こういった考えは,早くも1870年代にミル,スペンサー,ルソー,ロックなど欧米自由主義理論や近代市民革命論の翻訳・紹介という形で日本にもたらされたが,有司専制政府との抗争のなかでしだいに特定個人の血肉化された思想になるとともに,没落農,小作貧農,都市細民などをはじめとした日本人民に受け入れられ彼ら自身のものともなっていった。周知のように土佐立志社に代表される初期民権論にあっては,その主体は「士族及び豪農の農商等」に限定されていたため,先のような自由主義論−近代市民革命論の受容が士族意識や儒教思想を媒介として行われた。したがって,ともすれば過剰な指導者意識や天下国家論もみられ,しばしば国家主義的傾斜も示されたのであった。上流民権論とよばれるのは,そのためである。その後,1880年代自由民権運動の発展のなかで,植木枝盛,馬場辰猪,中江兆民などによって,いわば平民民権論とでもいうべき考え方が提出され,自由民権思想の徹府化,血肉化が一定推し進められた。植木の場合,人民主権論のより一層の徹底した主張がなされ,人民はいっさいの無法に抵抗することができる(抵抗権),政府が国権に従わなかったり圧制をなすときは,これを“排斥”“覆滅”することができる(革命権),と論じていた。また,厳密な三権分立主義,財産制限なしの成人男女による普通選挙(植木は婦人解放を唱えていた)とそれにもとづく一院制議会が主張され,表面上立憲君主論の立場がとられた。ただし,急速に神格化されてゆく天皇制への反発の念は,きわめて強かった。貧民論においては,その原因としての「自由権利の不平均」に目を向けるべきとされ,貧民同士の団結が強調され,労働組合結成に類した発想が示されていた。ただ,植木は私有財産尊重思想の持主であり,また土佐という派閥意識からの脱却を最後まで達成できなかったなど,理論の自己自身に対する受けとめ,思想の血肉化には明らかな限界があった。また,馬場における人民同士の交流,連帯によるインターナショナリズム建設へという先駆的思想や,中江兆民におけるような実質的な平等社会を期するために未解放部落民に対する差別意識を撤廃せよという意見(「新民世界論」1888年2月)もこのいわゆる平民民権論の潮流に棹さすものといえる。なお,1880年初め朝鮮における軍隊反乱に際して即時出兵,武力干渉を行おうとした政府や国権主義者に対し,民権派は強く反対して平和主義と反膨張主義(=小国主義)の立場をとったが,なかでも中江は政府の「富国強兵」路線を真向から批判する論理を展開し,実質平等の「隣国交際の道」を樹立すべし,と唱えたのであった(「論外交」1882年8月)。大きくいえば,以上のような民権左派の系譜に入るけれども,大井憲太郎の場合,一般人民の参加する議会を即時樹立すべきであると早くから論じていたがゆえに,下流民権論者とよばれるのが普通である。大井は1884年3月,関東地方の民権運動を指導する自由党内のポストに就いたが,それに相前後する時期,同地方一帯の血気にはやる急進的分子や没落農,小作貧農などが彼の周囲に結集していった。のちにまとめられ発表された『時事要論』(1886年),『自由略論』(1889)によれば,大井は当時,民主政体樹立の主張とともに,土地の公的所有化と保有土地に対する一種の累進課税とを含む社会改革論を唱えていたが,そうした下流民権論が急進化した農民たちに受け入れやすいものであったことは明白であろう。こうして,秩父事件で一つの頂点に達する没落農・小作貧農大衆の実力闘争(いわゆる民権激化諸事件)が,関東一円に相次いで引き起こされた。そこでは,借金棒引きなどの経済要求と,国会開設,あるいは専制政府打倒という政治的目標とが結びつけられ,社会権力(高利貸,寄生地主,豪農など)への実力攻撃が波状的に繰り広げられるとともに,司法権力との対決をへてついに万余の大衆による武装蜂起が驚くべき規律制をもって闘いとられるまでに至ったのである。〔参考文献〕後藤靖他編『自由民権思想』上・中・下,1957〜1961,青木書店
絲屋寿雄編『大井憲太郎と初期社会問題』1961,青木書店
色川大吉『自由民権』1981,岩波書店
井土幸治『秩父事件』1968,中公新書