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●自由民権運動 じゆうみんけんうんどう

アジア 日本 AD1874 明治時代

 1874年(明治7)の民撰議院設立建白から1888年(明治21)の大同団結運動に終わる国会開設・憲法制定・政治的自由を求めた政治運動。運動の発端は,前年征韓論に敗れ下野した前参議板垣退助,副島種臣,後藤象二郎や旧士族の古沢滋,小室信夫らが,1874年左院に民撰議院設立建白書を提出したことであった。彼らは「維新の功臣」を出した〈士族および豪家の農商〉による民撰議院を設立し,公議世論にもとづく開明的政治を要求した。その後,各地に立志社,自助社といった政社結社をみ,まず不平士族層に急激に拡大していった。だが,このいわゆる「士族民権」の運動は,政権への割り込みという弱さをもっていたうえ,政府が一方で巧妙に懐柔や買取,取りこみの方針をとり,他方で保安条令以下の厳しい弾圧法規を制定,実施したため,西南戦争のころまでには衰退した。同戦争にいたる士族反乱との結合も一部に目論まれたが,大規模な武装対決であった同戦争に旧士族層を軸とした反政府勢力が軍事的に敗北した結果,これ以降,政治抗争の武力決済というやり方はほとんど考えられなくなった。他方,この前後から士族の運動に影響を受けた豪農中心の民権を求める動きが生じていた。地方官会議による民会の設置過程を通じ,また地租改正をめぐる利益闘争の展開のなかで,自由民権思想は豪農の理論的武器として浸透し,運動はひろがっていった。この豪農の運動を,これまでの民権派士族は無視できず,彼らの要求に地租軽減,殖産興業反対の意見が盛り込まれ,さらに運動を全国的に組織するための愛国社再興運動が実践された。そして1879年(明治12),国会開設請願運動が全国的に展開され,翌年までに24万人以上の署名を集めた。政府は,運動の高揚に対し集会条例で弾圧を行ったが,運動は農民層をも含む圧倒的多数国民の規模で展開された。このため,政府内でも国会開設が問題として取り上げられたが部内で意見が分かれ,これと機を一にして,北海道開拓使官有物払下事件がおこり,自由民権派は政府の腐敗を攻撃し,即時国会開設を要求,運動は一気に沸騰した。政府はこれを阻止するため国会開設の詔勅を発し,同時に参議大隈重信を免官し,政府部内の統一をはかった。この明治14年の政変後,自由民権諸派を統一し大政党をつくる動きがあったが,派閥的対立,立憲政体実現における急進主義と漸進主義の対立などにより,結局,統一は失敗し,二つの政党を生んだにとどまった。板垣率いる士族,地方中小地主,農民を基盤とし,フランス流民権思想を基とする自由党と,大隈を頂き知識人,都市商工業者を基盤にイギリス風立憲主義を唱える改進党である。自由民権派はさまざまな憲法草案をつくったが,1881年以降,大蔵卿松方正義のデフレ政策の展開により混乱・分裂・沈滞へとむかった。すなわち,紙幣整理により農民層は寄生地主と小作農に分解し,商業においても小資本が大資本に服従するようになり,富裕層は政府支持にまわって,下層や貧農と対立した。さらに,対外危機が叫ばれると,旧士族・知識層は国権と国粋保全の主義へと走った。これに乗じ,政府は集会条例を改悪,弾圧を強化した。そうしたなかで,没落の危機に瀕した貧農層は一部の自由党左派の応援をも得て,福島事件以来秩父事件を頂点とするいわゆる激化事件,実力闘争にたち上っていった。これをふつう貧農民権と呼ぶが,一部ではブルジョワ革命の試み(挫折に終わったが)として高く評価されている。いずれにせよ,貧農,下層の動きと明確に分岐した寄生地主層−自由党の幹部たちは,大急ぎで自由党を解散するとともに,言論の自由,地租軽減,外交の挽回の三大事件建白運動や,いわゆる大同団結運動を行う。が,これらはいずれも国権主義的傾向の色濃いものであり,開設予定の議会にむけた選挙運動的性格が強かった。

〔参考文献〕後藤靖『自由民権』1973,中央公論社

色川大吉『自由民権』1981,岩波書店