50音順    検 索

●終末観 しゅうまつかん

AD 

 ほとんどあらゆる宗教は,世界の終りについての観念をもっている。この世界の終末には,最後の審判と応報の思想が何らかの形で伴うのが普通であり,世界の終りを機として,新たな世界が現れるとする考えがみられる。こうした人間と世界の究極的な未来に関する終末観は,古代の諸宗教のなかに種々の形で現れている。古代ゲルマン人の神話にも,世界の破滅についての記述がある。またギリシアにおいても,ホメロスの時代には終末思想がみられるのみならず,この世界が金・銀・銅・鉄という順序で悪化し,ついに破滅にいたるとする見方(ヘシオドス)がある。さらに仏教においても,輪廻転生や来世応報の思想がくわしく論じられてきた。とりわけ世界の終末のときに関連するものとして,三時思想および末法観がある。末法時のあとに法滅のときがくるとする考えは,浄土宗・日蓮宗に影響を与えた。一方,終末観はユダヤ教やキリスト教において,独自の展開をみせている。これらのほかにも,ペルシアのゾロアスター教の例があり,さらにユダヤ教を通して,イスラーム教に及んだ終末観の流れがある。しかしユダヤ教およびキリスト教においては,終末観は包括的な内容と形態をととのえた,終末論となって展開された点で,無視されてはならない。そこでは,歴史の全体が神の摂理のもとにあるとする見方に立って,人類と世界史との終末がとかれている。

 旧約聖書の終末論は,イスラエル民族の運命が背景にあって深い関連をもっている。ごく初期の終末論には,イスラエル民族の解放を待望する内容のものが多かった。しかし預言者たちは,イスラエル自身の審判が避けられぬことを強調しつづけている。さらに捕囚期の預言者第2イザヤ(イザヤ書第40章以下のことばをのこした預言者)では,神はイスラエルの救済者として描かれている。また同じころの預言者エゼキエルでは,終末論は幻や異象によって神意の秘密をあかす,黙示文学の性格がみられる。この傾向は,ダニエル書(前2世紀のものと考えられる)において,ますます強化された。そこでは終末は,“人の子”によって導入され実現する,新しい出来事として強調されている。こうした展開のなかで,イスラエルの救主としてのメシアの思想が成立することとなる。メシアのもとにイスラエル民族は守られ,メシアによって諸民族はその高慢をさばかれ,神の国が世界に君臨するととく終末論は,新約聖書における終末論に重要な枠組を提供することになったのである。

 新約聖書の終末論の特色は,イエスが救主メシア(キリスト)とされている点にみられる。すなわちそれによって,ユダヤ教の民族宗教としての限界をこえて,人類の救済者としてのイエスが明確となったのである。旧約聖書の終末論は,かくして宗教的・倫理的意味が深められることになった。さらに旧約聖書の終末論においては,メシアの到来はまだ実現しない出来事として待望されているのに対して,新約聖書の終末論では,決定的なことはすでにイエスの福音(よきおとずれの語義)において現れたと信ずる点に,基本的な相違がある。同時に新約聖書には,神の国の完成を,終末におけるキリストの再臨のときであるとして待望する信仰も強調されている。このことは,新約聖書の終末論が,すでに決定的なことはイエスの十字架において現れたという信仰と,それゆえ決定的なことが終末におけるイエスの再臨において,まさにおころうとしているという希望との,緊張関係のなかにあるのを物語っている。このような“すでに”と“いまだ”との緊張関係のもとに,キリスト教的終末論が成立している。それはまたキリスト教的歴史観の骨組を形成してきた。終末論の成立には,究極の意識と歴史の意識との2契機があり,互いに関連し合っているからである。要するに終末論は,究極的なものを,歴史的なものとの関連において洞察するのである。