●重農主義 じゅうのうしゅぎ
ヨーロッパ フランス共和国 AD
18世紀後半のフランスにあらわれた社会経済思想。【背景】当時のフランスはイギリスに比べると後進国で農業が主要産業であったが,絶対王政下の重商主義政策は,農村を犠牲に強行された。それは対外戦争のための戦費調達,インフレーションなどとともに,農村を極度の困窮に追いやった。このような歴史的背景のなかで生まれたのが重農主義思想である。ケネーがその中心的なイデオローグであるが,ミラボー,ボードー,デュポン=ド=ヌムール,ル=メルシエ=ド=ラ=リヴィエール,さらにはコンドルセ,テュルゴーらが“重農学派”(フィジオクラート)を形成して新たな社会経済理論を提出した。
【理論】一般に“重農主義”と邦訳される“フィジオクラシー”とは元来“自然の統治”を意味し,その認識の基礎には“自然的秩序”の理論がある。ケネーの『経済表』は,その自然的秩序を図式化した。フィジオクラートに共通する社会認識は,社会全体の根底には神によってつくられた永久不変の法則が存在するという見地に立って,社会全体を自然法則から把握することであった。よって,彼らは社会契約説をとらず,社会形成の過程を自然史的過程として把握し,この解明のためにケネーらはとくに経済構造の分析を試みた。そして,農業部門においての剰余価値たる“純生産物”がつくられ,この農業資本の拡大再生産が保証されれば,工業部門もおのずと繁栄していくという重農主義的見解をとり,かかる意味での経済過程の自然成長主義を主張した。この立場から,彼らは社会階級を地主階級(君主・僧侶階級を含む),生産階級(農業者階級),不生産階級(商工業者階級)の3階級に分類した。このような社会認識に立脚したフィジオクラートが実際に批判の対象にしたのは,絶対王政下における従来の重商主義政策や,経済の自立的発展を阻害する領主制権力であり,彼らは経済自由主義の立場から各種の政策を立案し,その実現をめざした。[1]交易の自由化,ことに穀物取引の自由,[2]諸関税の廃止と地主に対する直接単一地租賦課,[3]新税法による国庫収入金の,土地改良,運河開削,道路河川の修復などへの公共投資,などの政策が提示された。[2]のいわゆる“地租単税論”は絶対王政下における貴族の免税特権と対立し,またこれを前提にした[3]の公共政策は,産業ブルジョワジーを中核にしたブルジョワジーの権力奪取によって初めて可能となるものであるため,大革命までその実現を待たなければならなかった。しかし,[1]の“経済活動の自由放任主義”は1750年代からしだいに実施されることになり,いわゆる“農地個人主義”の見地から,若干の州において個別的に囲い込みの自由を認める“囲い込み勅令”や穀物取引の自由を認める勅令が1760年代から1770年代にかけて発布されていった。さらに1774年に財務総監の地位についたテュルゴーによって穀物輸出の自由をのぞく穀物の国内流通の自由化が実施され,1776年には宣誓ギルドの廃止が断行された。しかし,地主と農民との対立,都市ギルド共同体と農村マニュファクチュア経営者との対立のためにこれらの改革は未完に終わり,テュルゴーも1776年に辞職した。また1786年にはフィジオクラートの経済的自由主義の影響下にイギリス-フランス通商条約が結ばれ,従来の関税障壁が緩和されたが,安価なイギリス製品の流入による深刻な工業危機をひきおこし,革命前夜の社会的危機をさらに激化させる結果となった。
【意義】フィジオクラートが,経済学の考察の視点を重商主義理論に立脚する流通面から生産面へと移し,再生産過程を初めて客観的に把握したことはきわめて重要であり,経済的自由主義にもとづくこの経済理論は,イギリスのアダム=スミスに始まる古典学派経済学の形成に重大な影響を及ぼした。また彼らによる理論と実践行動は絶対王政の経済的基盤をほりくずし,“人為”の秩序にかわる“自然”の体制としてのブルジョワ的な経済過程の再編成をもたらす契機となり,フランス革命を理論的・実践的に準備する要因の一つになった。