●12世紀ルネサンス じゅうにせいきルネサンス
北アメリカ アメリカ合衆国 AD
アメリカの中世史家チャールズ=ホーマー=ハスキンズが1927年に出版した、この項と同じ表題の著述をきっかけとして定着した歴史概念。いわゆるルネサンス(イタリア=ルネサンス)と同種の傾向はすでに12世紀のヨーロッパに広くみられたとする考えかただが、この「中世のいつの時期かにすでにみられたルネサンス」という考えかたは、ハスキンズに始まるものではなく、たとえばこの本の出た前年には、H.ナウマンという人の『カロリング朝およびオットー朝ルネサンス』という本が出ていた。その数年以前にも、E.パツェルトという人が「カロリング=ルネサンス」についての本を出していた。これらの「複数のルネサンス」は、しかし、「暗黒の中世」を背景にした仇花、輝かしい「ルネサンス」(これは“イタリアの”とか“15世紀の”というふうにわざわざ限定する必要のない、ただ一つのルネサンスと理解されていた)の早咲きの花と理解されていたのであって、ハスキンズの本の革新的意義は、そのような理解の枠組を打破して、「イタリア=ルネサンス」と「12世紀ルネサンス」という「二つのルネサンス」を想定し、それまで考えられていたような「暗黒の中世」と「光明のルネサンス」という対概念の極端な対照性について反省を促し、中世文化から近代文化への連続的な展開のうちにこの「二つのルネサンス」を、ひいては「いくつものルネサンス」を置いてみせたところにある。したがって中世文化のほうが優位の概念であって、ハスキンズがこの本でスケッチした古典古代文化の復興運動は、12世紀文化全体のうちに包摂されるべき部分であって、それだけが独立して文化であったわけではない。ハスキンズ自身序文で述べているように、たとえばロマネスク・ゴシック様式の宗教美術や俗語による文学活動を古典古代文化の復興やシャルル5世(在位1364〜80)の顧問官団が、この混迷の世紀に王政の骨組を構築した。シャルル5世の登用した官僚たちは、その後数代にわたる王家官僚の家系集団をつくったのである。
1360年のブレチン=カレー条約で、イングランド王家はフランス王位継承権の主張を取り下げ、その意味では両王家抗争の種はなくなった。フランドルをめぐる両王家の対立も、イングランドとフランドルの貿易構造が変化したことによって、その性格を変えた。イングランドにプランタジネット王家最後の王リチャード2世が、フランスにシャルル6世(在位1380〜1422)が立ったころ、両王家の対立は解消されたかにみえた。しかし14世紀末以後、フランスの王政は王家親族諸侯の党派対立にひきずられ、イングランドには対仏強硬路線をとるランカスター王家が議会の支持を得て成立するに及んで、両王家の対立は再燃し、1415年イングランド王家のノルマンディー入寇を機に再開された戦争状態が、結局1450年代まで続いたのである。その間、1420年代、北フランスに英仏連合王家が成立し、廃嫡された王太子シャルルがこれに対抗して、南フランスでフランス王を称し(シャルル7世)、ジャンヌ=ダルクを介してヴァロワ王権の神権的性格を宣伝するなど、王政の確保に努めた。その背後にシャルル5世の創設した王家官僚の家系集団がいたのである。 シャルル7世を継いだルイ11世(在位1461〜83)の代、最後に残った王族諸侯中の大物ブルゴーニュ侯家も解体し(家系はオーストリア=ハプスブルク家に吸収された)、王家は王国統治の体勢を整えた。15世紀後半に入るとヨーロッパの農業経済が回復し、国際商業の活発化したことがその背景にあった。ルイの継嗣シャルル8世(在位1483〜98)の代、王家は地中海経済圏との関係強化をはかってイタリアの政情に干渉する。ヴァロワ=アングーレーム王家初代フランソワ1世とドイツ皇帝カール5世との対立抗争の舞台が用意されたのである。ヴァロワ=アングーレーム王家は外にドイツ皇帝家ハプスブルク家と角逐し、内にあっては新旧キリスト教両派の対立抗争をいかに調停するかの努力に明け暮れた。16世紀後半、内乱(ユグノー戦争)にまで発展したこの宗教対立の渦のなかから、やがてブルボン王家が成立する。その過程はまたフランス絶対王政確立の過程でもあった。