●自由都市 じゆうとし
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
狭義の自由都市は中世ドイツの司教都市であったもののうち,13世紀ごろに領主支配から独立して帝国直属性を得た都市をさし,中世末期からは他の帝国都市も一括して自由帝国都市と称される。広く理解すれば,ヨーロッパの中世都市は多くが法的政治的に自律した自治都市として成立しており,それらはいずれも程度の差こそあれ少なくとも一時的には自由都市の性格をもった。近世日本の堺も自由都市的性格をもつとされる。近代以降のドイツにおいては,邦・州と同格の地方自治権を認められ連邦的国家の構成体をなす都市を自由都市と呼ぶ。【自治都市】中世都市は初め王,司教座,修道院,世俗の貴族らの領主支配のもとで基礎づけられ,11世紀以降領主支配から解放されて自治権を獲得するようになる。商業の繁栄によって商人の力の増したドイツのラインラントやフランスの北部・東部では,彼ら商人たちを中心とする市民が宣誓共同体を結成し,その共同体的基礎の上に領主に対抗するコミューン運動を展開し,ときには武力闘争をへて都市自治体を成立させた。そのような都市では,商人ギルドの裁判慣習から成立した商人法が都市法へと発展した。コミューン運動にさいして市民は都市を財政基盤にせんとする王権の支持を得る場合も多く,自治都市は王の保護のもとにその都市法を確認ないし付与された。領主と市民との対立がそれほど激しくなく領主の与える特権状が都市法の基礎となって市民居住区が自治都市へと成長する場合もある。また12世紀からは,領主が商人団体を招き,既成の都市法を範として都市を建設する例も多くなる。ツェーリング家によるフライブルク(イム=ブライスガウ,1120),ハインリヒ獅子公によるリューベック(1158)は,いずれもケルンの都市法を継承した建設都市として良く知られている。自治権を獲得した都市は行政機構の組織化をはかり,イタリアでは11世紀末に,そのほかの地方では12世紀末ないし13世紀に市参事会の成立をみるにいたる。参事会に帰属する権限は都市と領主との関係によって異なるが,領主支配を完全に除去したところでは参事会は立法,裁判,警察,軍事,築城,徴税,市場管理,貨幣鋳造などの諸権利を行使した。この間,自治都市形成の指導的地位にあった大商人や都市在住の下級騎士らが都市貴族となり,市参事会を独占した。これに対して14世紀になると,手工業ギルド(ツンフト)が成長して市政への参加を要求するツンフト闘争をくりひろげ,その結果,参事会会員の全員または一定数がツンフトをとおして選出されたり,あるいは従来の参事会と並んで新たに大参事会が構成されて2院制的体制をとるなどの進展がみられた。自治都市の成立に伴い都市内の社会的自由も大きくなり,「都市の空気は人を自由にする」との法諺は,農村から逃亡・移住した農奴も満1年のあいだ都市に居住したのちには自由市民の身分を得られるという慣行を示すものである。しかしやがて,都市内の政治的社会的対立の激化,市政民主化に対する反動,ギルド自体の閉鎖化などのために都市自治は形骸化し,イギリスやフランスのように絶対主義化する諸国では都市は王権のもとにその自治権を失い,ドイツでも帝国都市以外のものは領邦君主の支配下に置かれるようになる。ただし,北イタリア諸都市は周辺領域を合わせ,都市国家を形成する。
【自由都市】コミューン運動に最も成功したのが狭義の自由都市である。これには,ライン河岸のバーゼル,シュトラスブルク,シュパイアー,ヴォルムス,マインツ,ケルン,およびドナウ河畔レーゲンスブルクの7市が数えられる。司教都市から自由都市への発展過程はすべての都市について知り得るわけではないが,多くの場合には11世紀後半ないし12世紀初め,いわゆる叙任権闘争における皇帝と司教との争いを契機に運動を開始し,12世紀前半に王または司教から自由特権状を獲得するか,あるいは誓約団体を結成している。その後も領主的支配を固持しようとする大司教・司教らとの対立抗争を重ねたあと,ほぼ13世紀中ごろから同世紀の末までに帝国直属性を確保した。これらの都市は,王に対する忠実宣誓,帝国税,軍役を免除されて他の帝国都市よりも有利な特権をもった。しかし,中世末期には帝国都市の義務も多くは名目的となり,またその後の都市の全般的衰退のもとで自由都市と帝国都市との差は解消する。なお,マインツは15世紀中ごろに自由特権を失い,大司教の領邦君主権に服した。
【帝国都市】中世ドイツ帝国に直属する都市が帝国都市で,王宮・王領地に成立した国王都市から発展し,他に上記の「自由都市」やリューベック(1226)のように諸侯の支配から独立して帝国都市となったものもある。15〜16世紀以降,「自由都市」と均一化してからは自由帝国都市と呼ばれる。ドイツ王権は早くから保護,特権付与などをとおして商業および都市の発展に関与しており,とくにシュタウファー王朝(1138〜1254)の諸王は多くの国王都市を建設してそこに集権政策の経済的政治的基盤を求めた。諸侯はこの政策に反対して挫折させ,さらにシュタウファー王権の崩壊によりその保護を失った都市を自己の支配下におさめようとした。しかし,すでに自治権を強めていた都市はこれに抵抗し,帝国直属性を維持する。帝国都市以外のものも参加して結成されたライン都市同盟(1254〜58)やライン=シュヴァーベン都市同盟(1376〜88)などは,諸侯に対して都市の自治と自由を防衛する目標をもつものでもあった。帝国都市は皇帝への忠実宣誓,軍役奉仕,宿営奉仕,帝国税負担の義務を負い,初めは王の代理者(帝国フォークト,レクトールなど)の管理下に置かれたが,自治体の確立とともに高級裁判権をはじめとする諸特権を獲得した。その特権保持と帝国直属性のゆえに帝国都市は諸侯と法的に同格であり,諸侯の領邦国家形成にとって障害となったばかりか,ニュルンベルク,ウルム,ローテンブルクなど若干の都市は周辺農村地帯にひろがる小領邦を形成した。諸侯の都市抑圧的傾向の要因である。他方では,王権の保護育成を失ってから繁栄することなく終わったものも少なくない。帝国都市またはその代表都市は,1255年を最初の例として14〜15世紀にさかんに帝国議会に召集された。ただし,多くはラント平和,帝国租税など都市の援助を必要とする場合に限られ,1489年以後選定侯会議,諸侯会議と並ぶ第3部会議(都市会議)を構成することになってからも帝国議会での都市の影響力は最小に抑えられた。15世紀後半から帝国都市も衰退しはじめ,宗教改革運動で一部の都市は指導的役割を果たすものの,宗教戦争・三十年戦争後の都市の経済的後退はさけられなかった。いくつもの都市が領邦君主あるいはフランスのものとなり,18世紀末まで帝国都市として残ったのは51市である。そして1801年,リュネヴィル和約によりライン以西はフランスに譲渡され,ついで1803年の帝国代表者会議はほとんどの帝国都市を領邦国家に併合するものと決定した。わずかにアウグスブルク,ニュルンベルク,フランクフルト=アム=マイン,リューベック,ハンブルク,ブレーメンの6市がなお帝国直属の地位を保ったが,1806年神聖ローマ帝国の解体ないしはナポレオン軍の占領の結果,自由帝国都市の歴史は閉じられた。
【近代の自由都市】1815年成立のドイツ連邦には,フランクフルト,リューベック,ハンブルク,ブレーメンの4市が自由都市の地位を回復して加盟した。あとの3市はかつてハンザ同盟の指導的都市でもあった。フランクフルトは1866年,ドイツ連邦解消と同時にプロイセンに併合されたが,ハンザ3市は北ドイツ連邦,ついでドイツ帝国の構成体でありつづけた。1937年,リューベックが自律性を失い,第二次世界大戦後はハンブルクとブレーメンがドイツ連邦共和国(西ドイツ)を構成する自由市である。
〔参考文献〕服部良久「ドイツ中世都市研究の現状と課題」歴史評論326,1977
魚住昌良・水野絅子・鵜川馨「ヨーロッパ中世都市研究の動向」日本史研究200,1979
林毅『ドイツ中世都市法の研究』1972,創文社
林毅『ドイツ中世都市と都市法』1980,創文社