●自由党(日本) じゆうとう
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日本最初の自由主義政党,自由民権の結社。1880年(明治13)国会期成同盟の大会席上,植木枝盛らによって政党結成が求められたが,すぐにはつくれなかった。そのあと有志懇談会をつくって組織を初め,河野広中,松田正久,内藤魯一,沼間守一,山田平左衛門,植木枝盛,山際七司,林包明らが盟約4カ条を制定している。翌年北海道開拓使払下げ事件を契機として政府攻撃批判をつよめるなかで,期成同盟・自由党グループが加わり,10月の立憲・国会開設の詔勅が出された直後に合同話が急速にすすみ,同29日盟約3カ条,規則15カ条にもとづいた自由党が成立している。役員は総理板垣退助,副総理中島信行,常議員に後藤象二郎,末広重恭(鉄腸),馬場辰猪,竹内綱,幹事林包明,内藤魯一,林正明,大石正巳らによって構成されている。自由の拡大,権利の保全,立憲政体の確立などを盟約している。前年度結成の自由党グループが少数の理論家および地方政社の幹部によってつくられているのに対し,土佐派出身者が多数を占めていた。またこれにつづいて友党があいついでつくられた。自由党は各地を遊説し,その勢力の拡大につとめた。1882年(明治15)4月板垣総理が岐阜で刺客におそわれ,植木らが主宰する酒屋会議も弾圧され,集会条例の追加改正によって地方支部結成を禁止されている。その結果豪農組織化への道もとざされた。その上政府は福島事件をひきおこして,河野広中らを投獄した。一方板垣,後藤らを外遊させるための政治工作がすすめられ,党を分裂解体させようとする動きがすすんだ。その費用は三井合名会社から出た。立憲改進党よりそれが暴露追及されると,自由党は政府との対決をすてて偽党撲滅・海坊主征伐をかかげて,改進党との対決(暴露戦術など)に転じている。こうした動きは,自由民権運動の力を著しくそぐこととなり,この間に松方デフレ政策はすすみ,農村の貧窮化は激化し,自由党の組織力の低下に比例するかのごとく,ほかの党の組織化がすすんでいる。機関誌「自由新聞」の論説では政府批判の論陣はくずれている。そのため松方財政になやむ地方の中小地主と困民たちは,しだいに議論よりも,政府暴圧へ反対するのに武力反抗へと立ち上がることとなった。1884年(明治17)9月には加波山(加波山事件),飯田(飯田事件)などで政府転覆の計画を推進した。しかしすでに党の中央は地方を抑える力を失ってしまい,統制ある行動も規制することもできなかった。そのため彼らは,10月に政府弾圧に抗することもできず解党することとなった。しかしそれにもかかわらず各地の自由党員は,自らの権利と暮らしを守るたたかいに立ち上がった。秩父事件をはじめ,各地にその動きをみいだすことができる。自由党は結成後3年で解党したが,自由民権運動の中心としての自由党の歴史が,大きな影響力をもっていることは,民権100年の研究成果によっても確信しうる。
解党によって中心を失った元自由党員たちは1888年(明治21)には後藤象二郎らの首唱もあって,大同団結への動きを示し,運動分裂後にも大同倶楽部,大同協和会に分属し,1890年(明治23),大井憲太郎は自由党再興結成に努力した。しかし板垣退助らはこれに参加せず,しばらく3派併立していた。やがて3派は連合して庚寅倶楽部をつくり,9月立憲自由党を成立させた。1891年(明治24)3月より立憲の2字をけずって自由党と改称した。議会開設とともに自由党は第一党となり,野党,民党として政府と対決し,民力休養を求めている。立憲改進党と協力して,政府専制と対立,政府予算の削減を求めている。これに対し政府は議会解散権を行使して対抗した。その後は品川弥二郎内相中心の大選挙干渉もあったが,めげずに自由党は第1党を守りつづけ,たびたびの停会処分にもめげずに戦いつづけていた。しかしその後分裂と妥協をかさねるようになり,1895年(明治28),板垣が内相となるにおよんで,しだいに協力路線へと変わっていく。そして日清戦争後の“経営の時代”となると隈板内閣をつくることによって憲政会と妥協したが,まもなく妥協をやめ,分裂をおこした。そのころにはもはやむかしの自由党の面影はなくなっていた。そして立憲政友会へ組織替えされた。