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●住宅問題 じゅうたくもんだい

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【戦争と住宅難】第二次世界大戦は,アメリカ合衆国を除き戦勝国・敗戦国を問わず参戦国の都市と住宅を大量に破壊した。国土のほとんどが戦場となったドイツでは,空襲と市街戦によって西ドイツの地域だけで,住宅全体の約4分の1にあたる200〜250万戸が破壊された。また,約750万人の追放者・難民が西ドイツに流入し,1949年時点で450〜500万戸の住宅が不足,そのとき残っていた住宅は約950万戸にすぎなかった。ソ連では,第二次世界大戦によって1,710の都市または都市型集落,7万以上の村が破壊され,2,500万人が住宅を失った。日本では,1,400万戸と推定される本土の住宅のうち,210万戸が焼き払われ,55万戸が自らの手で破壊され,全体の5分の1を失った。被害は119の戦災都市に集中し,28都市は被災率7割以上,10都市は8割から9割,全人口の2割を占める6大都市は,京都を除いて5〜6割の住宅を失い,被災家屋の過半数130万戸はここに集中した。敗戦後の戦地,旧植民地からの引揚げ者を計算に入れると,住宅不足は420万戸に達した。被災者の多くは防空壕やバラックに住み,雨露をしのいだが,寒さによる死者も少なくなかった。このように戦争は,膨大な住宅を破壊し,生存の基盤を奪い,人々に不幸をもたらす。今日世界では,なお戦争が続き,毎日のように人が殺され,家を焼かれ,食糧を奪われ,土地を追われている。難民問題は20世紀最大の課題の一つといえるが,戦争が無くならなければ解決しない。また米ソ二大国の対立を中心に,世界の緊張が続き,核兵器の開発・保有が止まることなく進んでいるが,そのため国民経済は軍備に回され,住宅問題の解決を阻んでいる。日本でも1980年代に入ってから,防衛費の拡大の必要性が政府によって叫ばれ,福祉・住宅予算が削減されている。住宅問題を解決し,人々の豊かな生活を保障していくには,平和が何よりの前提であることがわかる。

【住宅問題と住宅政策】戦争は住宅難を引きおこす大きな原因であるが,一般に住宅問題は社会的におこる問題である。住宅問題が社会問題となったのは18世紀以降である。産業革命に伴う産業と人口の急激で大規模な都市への集中は,都市において劣悪な労働者住宅の集団をつくり出した。産業革命を最初に経験したイギリスでは,地下室にまで及ぶ過密居住,通気の悪い背中合わせの住宅が密集し,その多くの家では一つのベットに家族が折り重なるようにして寝た。袋小路や裏通りはゴミ捨て場と化し,下水がわりのテムズ川は糞尿に満ち,風が止むと息もできないなど,住宅から街全体が不潔で不衛生であった。家が狭いので,男も女もバーでうさを晴らし,街にはアルコール中毒者が溢れた。工業都市での労働者の平均寿命は約20歳で,やがてコレラが大流行し(1830〜32),何十万人もの人が死んだ。いったん蔓延した伝染病は労働者もブルジョワジーも差別しない。支配階級は愕然として労働者の住宅事情に目を向け,ここに歴史上初めての被支配者層の住宅が,住宅問題として社会的にクローズアップされ,「住宅政策」が登場することになる。1842年,弁護士チャドウィックはその実態を医師,公衆衛生関係行政官等の協力のもとに調査し,過密居住や不衛生な住宅・都市の状態は労働者の寿命を縮め,医療費や残された家族に対する救貧対策費を増大させて,社会の損失になること,道路・下水・公園・住宅等の整備は,個々の労働者はもとより社会全体にとって不必要な出費を節約できることなどを明らかにした。その成果は1848年の公衆衛生法の成立に反映して,スラムクリヤランス,建築規制,公共住宅の供給,住居監視員制度,公有地の拡大,土地利用規制などの住宅・土地政策として発展していった。1898年ハワードは,都市の利便性と農村の自然環境の良さを結びつけた田園都市論を提唱した(『明日−−真の改革にいたる平和な道』,1902年に『明日の田園都市』と改題)。1899年に田園都市協会が創設され,1903年には最初の田園都市レッチワースが着手され,その後の数多くのニュータウン建設の出発点となった。田園都市の思想は世界に普及し,とくに第二次世界大戦後の住宅地開発,住宅供給の中心的手法となった。日本にも大きな影響を与え,1907年(明治40)に内務省地方局有志によって『田園都市』が刊行され,郊外の田園住宅地開発を促し,戦後は多摩・千里ニュータウンなどの公的開発に発展し,「団地族」ということばに象徴される新しい住様式を実現させた。

 第二次世界大戦後の復興に際し,ヨーロッパ諸国は住宅建設を中心に据え,イギリスでは,1946年から1978年に建設された住宅総戸数の58.6%はその大半が3LDK以上の公共借家であった。西ドイツでも同じく社会住宅と呼ばれる公共住宅が42%を占めるなど,ヨーロッパ諸国の住宅難の解消,住居水準向上の指導的役割を果たした。これらの政策によって住宅の絶対的不足が解消するとともに,既成市街地の住宅の修復に目が向けられた。また,それまで都心の不良住宅改造に際しては,住宅全体を壊して建て替えるスラムクリヤランスの方式がほとんどであったが,コミュニティを壊すこと,高層住宅は老人の孤立化と幼児を室内へ閉じ込めるという理由から中止され,既存住宅のリハビリテーション事業が中心となった。この思想は従来のニュータウン方式が住宅を供給しても街並みをつくらなかったこと,クリヤランスは人々が歴史的に積み重ねてきた生活文化の反映としての街並みを壊すこと,住居は生活文化の結晶であり,都市の再生は歴史的街並みの保全と住民参加によるコミュニティの復活から出発しなければならないという認識へと発展し,現在では住宅政策歴史的街並み保全を一体的に進めることが,世界の潮流となっている。この課題への取り組みは,イタリアがとくに熱心で,1969年労働組合は住宅・都市問題に対する社会的権利として都市管理への直接参加を保障する「地区評議会」を結成した。1970年代に入ると,文化財的発想の街並み保存論が影をひそめ,歴史的につくられた生活環境とそれに結びつく社会組織を保護することが主張された。歴史的街並み保存は大切だが,都市は博物館であってはならないと,住宅の再生と社会施設の設置,産業基盤の整備などに力が入れられ,1960年代まで続いた。郊外の大規模団地の建設が抑制され,歴史地区周辺部の老朽化した庶民地区を修復・再生し,低家賃の庶民住宅として住民に供給する事業が開始された。

住宅運動】先進資本主義諸国における住宅政策の形成と発展は,長い期間にわたる国民諸階層の住宅改善に対する努力と闘いの成果であった。その歴史は19世紀に戻るが,20世紀に入って大きな力となった。第1は労働組合の運動で,建築労働者の運動と地方自治体の住宅関係職員の運動があった。第2は借家人組合,居住者団体,第3は政党,第4は大学教授,弁護士などの知識人の運動の四つに大きく分けられる。第2の借家人運動は強力で,グラスゴーの大規模な家賃ストライキにその例をみることができる。20世紀初頭の大英帝国の拡張は,造船業と海軍兵器製造業の繁栄をもたらし,工業都市グラスゴーヘの産業・人口集中を激化させたが,住宅市場を独占する家主は,新規の住宅供給よりも既存住宅への過密居住で利益をあげようとした。1912〜15年のあいだに人口が6万5,000人増えたのに,住宅は,1,500戸しか建たず,70%の人々は1室,2室住宅での居住を強いられた。家賃高騰の激しさは広汎な層に及び,1911年借家人の要求を基礎に都市労働党が活動計画の主軸に住宅改革を掲げて結成,1913年スコットランド借家人協会連合,1914年グラスゴー婦人住宅協会が結成された。1914年の第一次世界大戦は,居住条件の悪化と家賃高騰に拍車をかけ,独立労働党は家主に対抗すべく1915年住宅会議を結成,さらにグラスゴー労働組合評議会の支援のもとにグラスゴー労働党住宅委員会が設立された。こうした政治・労働団体の支援のもとに,1915年1月熟練工の居住区ゴーバンで家賃ストライキが始まった。ストライキは家賃上昇分の不払いから借家人の追い立て阻止,大規模なデモヘと発展した。軍隊に息子を奪われるという耐え難い苦しみにさらされている家族がいるときに,戦争による住宅不足につけ込んで,不当な利益を得ている家主への抵抗は大きな支持を得て,同年11月家賃ストライキ参加者は2万人に達した。労働組合は借家人の保護,家賃の統制,公共住宅の供給などの要求を政府が受け入れない場合ゼネストに入ると声明した。同月スコットランド国務大臣は,すべての家賃を戦前のレベルに凍結するよう内閣に提案,家賃の上昇を抑え安価な住宅供給を実現するための家賃・住宅融資利子制限法が成立。さらに1919年労働者への住宅供給を自治体に委任し,必要な経費を提供することとなる住宅・都市農村計画法が制定され,グラスゴー家賃ストライキはイギリスの住宅政策の基本的性格を規定した。1960年代後半からヨーロッパでは,スクオッティング(住宅困窮者や家無しの人々が住宅その他の不動産の所有者の許可を得ることなく,また家賃を払わずに空家に侵入し,そこを占拠して住む)運動が席捲した。スクオッティングの歴史は古く,17世紀中ごろに発生した「ディガー・ムーブメント(掘りおこし運動)」に端を発し,二つの世界大戦後の絶対的住宅不足の際にも発生している。1960年代末にはヨーロッパ国全域でこの運動がおこり,たとえばイギリスでは,1969年から80年までのあいだに延べ25万人のスクオッターが発生した。第二次世界大戦後,西欧諸国は公的住宅供給を熱心に行ったが,資本主義経済のもとで依然として慢性的住宅不足が存在すること,空家が多数存在しそれへの侵入が刑法の対象とならないこと,国民のあいだに広く居住権が認識されていることが,その背景にあったゆえと考えられる。西ドイツでは,1977年のフライブルグの空家占拠を最初に全国にひろがった。スクオッターは,従来東南アジア等の低開発国における低劣な居住地形成の問題が中心であったが,西欧先進国における住宅運動の一環として大規模に登場したことが戦後の特徴である。1899年に設立されたスウェーデン最大の労働組合ナショナルセンターLO(労働総同盟)は,社会民主党との関係のもとに,歴史的に厳しい住宅難のもとで勤労者自らの力で生活防衛を果たすため,住宅協同組合運動を進め,スウェーデンの住宅問題解決に大きな役割を果たしてきた。第一次世界大戦後の1923年にHSB(借家人貯蓄建築組合)を設立し,会長にはLOの幹部が就任,住宅協同組合運動のモデルとして諸外国にも影響を与えた。また,第二次世界大戦の影響を受けて生まれた建設労働者の失業に対し雇用の機会を与えるため,1940年建設労働組合はSR(スウェーデン全国建築組合)を設立,ともにスウェーデンの住宅供給の水準向上に大きな役割を果たし,1981年現在,全住宅の約40%を占めるにいたっている。西ドイツでも19世紀後半から住宅協同組合運動がおこり,1924年には自由労働組合によって,公益的住宅会社が設立され,1933年労働戦線に吸収されたときは8万戸を建設した。第二次世界大戦後は「ノイエ・ハイマート」(本部ハンブルク)に吸収され,1980年現在,30万戸の賃貸住宅を保有,7万戸の分譲住宅を供給した。資本主義社会のもとでの市場原理による住宅供給は,労働者の住宅を保障しないというのが以上に例示した諸運動の背景である。イギリスの「シェルター」は,1966年に設立された住宅運動団体“National CampaiGn for the Homeless”で住宅政策立法のために議会に圧力をかけたり,住宅相談(援助センター),居住者の側からの住宅調査,たとえば「劣悪な住居状態が子供に与える影響」その他を行っている。

【住居の理念】先進諸国における住居の認識は,今日次のようなものになっている。[1]住居は人権である−住居が貧しい状態にあれば,人間は人間らしく生きることができない。ILO(国際労働機関)は,1952年の第44総会で〈労働者住宅に対する勧告〉を決議し,そのなかで次のように述べている。〈労働者の住宅は彼の幸福において最も重要な要素の一つである。住宅の過密居住は家族の調和を阻害し教育に悪影響を与える。労働者自身はどこかへ逃避しようとする。労働者の住宅の標準以下の状態は,地域社会ならびに全体としての社会の健康,道徳および平和に対し重大な影響を及ぼす。青年労働者が住宅不足のために結婚できないことは,いやでも不調和,不道徳,挫折,不幸の形で犠牲を招く。地域社会の人々の大部分が貧民窟の状態で居住することを余儀なくされている社会は,労働者の尊厳を傷つけ,彼の子女に自尊心をうえつけることを防げる。自尊心と尊厳を確保するには,人は多少でも自尊心をもちうる家庭と地域社会をもたねばならない〉このILO勧告は,第二次世界大戦後,ルーズヴェルト大統領夫人が東南アジアの住宅事情を視察し,改善の必要性を説いたことから出発し,世界に大きな影響を与えた。1948年国連総会で採択された世界人権宣言は,〈何びとも食糧・衣服・住宅・医療その他必要な社会施設を含め,個人および家族の健康と幸福を保障するに十分な水準の生活をする権利を有する〉(第25条)と述べ,今日では西ドイツバイエルン州憲法106条,スペイン憲法47条など,人間にふさわしい適切な住宅を享有する権利を有することを明文化している国もあり,ヨーロッパ諸国では広く国民のあいだで住居を人権とする認識が強い。[2]福祉の基礎としての住居−WHO(国際保健機関)の統計によれば,平均入院日数はアメリカ8.0日,西ドイツ15.8日,フランス14.0日,スウェーデン12.6日などに比べて,日本は42.9日である(1980)。日本の平均入院日数の長さは住居の貧困と関係している。狭い住居は核家族を強制し,老人の病院通い,長期入院を余儀なくされるなどの結果を招いている。貧しい住居,高い住居費負担等を放置したままでは,医療・年金などの社会保障制度も人々の生活を支えられない。良質の住居は健康,福祉,自立の基礎となるものである。[3]コミュニティの基盤−住居が良好でなければ,人々は定住の意志をもたず,コミュニティが形成されず,住民自治,市民社会や文化が成立しない。良質の住居は民主主義と文化の基盤である。

【社会主義と住宅問題】資本主義社会では,都市への農村人口の絶えず集中する「都市と農村の対立」が住宅問題の根本的原因であり,社会主義社会だけが住宅問題を解決しうるといわれてきた。しかし現在のソ連や中国では,住宅難が深刻な問題となっている。ソ連の住宅問題は次の三つが原因と考えられている。第1は古いロシアのもっていた住宅は極端に貧しかった。〈ソヴィエト権力は旧体制から信じられないほどの住宅を遺産として受け取った〉(フルシチョフ「大10月社会主義革命40周年」1957年)。第2は前述の戦争による莫大な破壊。第3は工業化に伴う都市人口の増大である。

 中国の住宅問題も同じ背景をもち,1949年の解放直後工業が急速に発展したため,都市への人口集中は著しく,1943年の5,564万人(全人口の10%)から1957年の9,200万人(14%)へと増大し,人口100万人以上の都市は9から14に増えた。解放後の都市人口の増加は,古い中国がもっていた政治的・消責的あるいは外国資本に依存する買弁的都市といった寄生的都市から生産と消費のバランスのとれた工業都市へ脱皮,転化するなかで必然的な現象として現れた。1980年現在,都市人口約2億人,農村人口8億人,しかも10億人のうち3.8億人が結婚時期にあたる若者で,毎年都市だけで450万人が結婚,500万人が出生している。農村では個人住宅の建設が中心であるが,都市では政府・自治体の出資による集合住宅の建設として取り組まれ,たとえば北京市では,1979年から83年までの5年間の住宅投資額は,全市総投資額の23.1%を占め,1980年,平均の居住水準が解放初期に比べて初めて超えた。現在はいわゆる四つの現代化を進める政府の方針のもとで,都市人口の増大は必至であり,その一方で土地問題が深刻になっている。中国では優良な農地を壊さない方針をとってきたが,それでも工場や住宅建設のために,解放後30年で耕地の4分の1がなくなった。中国の農地は国土の10分の1にすぎず,1人あたり農用地面積は.世界平均の3分の1たらずで,毎年風水害等自然災害があり生産力も低い。食料は民族自立の基礎であるという政府の基本方針と住宅建設への積極的な取り組みを,どう調和させるかが今後の中国の重要課題であるが,この問題は日本も含め世界共通の事柄として受けとめるべきであろう。

【日本の住宅問題】江戸時代,都市の庶民住宅は9尺2間の台所,4畳半か6畳,押入れの裏長屋,さらに低収入者は2畳1間の棟割長屋ずまいという貧しさであった。明治から大正にかけて,東京での借家人は92%となり,家賃を滞納した場合,家主は人夫を連れてきてふとんをはぎとり,家具を外に放り出す強制立退きが頻発した。第一次世界大戦後の大恐慌の際は,家賃の払えない借家人を追い出すため,他の家主に名儀だけ売って賃貸借契約を消滅させる「地震売買」がおこった。これに対し1922年(大正11)弁護士布施辰治らによって借家人同盟が結成された。翌年の関東大震災では,340万人4,000人の被災者,全壊家屋12万8,200,半壊家屋12万6,200,焼失家屋44万7,100戸という被害を出した。政府は借家人同盟の運動もあって,大正13年8月,借地借家臨時処理法を公布し,震災後建設された14万戸のバラックを法律で認めた。第二次世界大戦後の極端な住宅不足による地代・家賃の高騰を避けるため,政府は戦時中から続いていた地代家賃統制令を強化するとともに,シャープ勧告による固定資産税地方税として課せられた。そのため借家経営の経済基盤は奪われ,戦前大都市の8割を占めた民間借家の供給は途絶え,既存の借家人は家主からの買い取りや立退きを迫られた。借家が供給されないために経済能力のある者だけが住宅を取得しえた。それも間もなく行詰まり,昭和25年住宅金融公庫による融資制度が登場し,持家建設の援助が行われた。また昭和21年,8万引揚者を中心に「住宅よこせ運動」がおこり,東京都心の三つの小学校や旧陸軍技術研究所の占拠運動,大邸宅の解放運動等へと発展し全国にひろがった。病院・老人施設等にも被災者が住みつき,本来の活動の妨げになることから,厚生省は昭和26年「厚生住宅法案」を検討したが,建設省による対案「公営住宅法案」に吸収された。戦前の住宅行政は厚生省で管轄していたが,戦後は建設省に移り福祉行政的視点から離れていった。昭和30年には,大都市圏域の中堅勤労者を対象に集合住宅を供給し,高度経済成長政策に伴う大都市への人口集中を支える役割を果たした。昭和40年代後半から土地投機が大規模に進み,土地と住宅を利潤追求の対象にする持家政策のもとで住宅産業が発展した。しかし市場経済原理のもとでの住宅供給は,過密・災害危険・不良環境・低質住宅の氾濫,周辺居住環境の破壊,過重なローン負担による家計圧迫や一家心中等の悲劇を続発させた。日本人の多くは,公共賃貸住宅の供給が少なく良質の借家が存在しないことから,持家取得に向かわざるを得ないこと,社会保障制度の遅れから持家は社会保障代替機能として評価していることなどで,住宅戸数は世帯数を上回り,平均床面積は上昇しているものの,住宅ストックを形成せず子孫に不良資産を遺している。明治以降はもとより,第二次世界大戦後も計画的に住宅ストックを充実させる政策をとらなかった。住宅政策は,西欧先進国がとった環境形成や福祉の視点ではなく,労働力確保,景気対策,利潤追求のためであった。今日,日本は自由主義国第2位のGNPを誇っているが,住生活の面からみると貧しい後進国といえる。生存と生活の基盤である住居の貧困は,高齢化社会を迎える日本の未来を危くしている。それに対し,1982年「日本住宅会議」が結成され,立ち遅れた住居の研究に市民・専門家がいっしょになって取り組む運動などが生まれている。

〔参考文献〕早川和男『日本の住宅革命』東洋経済新報社

西山夘三『住民論』勁草書房