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●宗権 しゅうけん

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 宗教的権威の意。世俗的権威や政治的権力との対比において用いられる概念である。普通は教権対俗権とか祭政一致や政教分離などの問題が関連するが,ここでは広義の宗教的権威と理解し,呪術的要素をも含んだ意味でとらえ,歴史的制度的問題としてよりは,宗教的権威の源泉あるいは成立条件に視点をあて,主として機能的側面からの把握を試みたい。

【マナの観念】マナとはメラネシアの原住民に起源をもつ語であるが,北米インディアンの「オレンダ」「ワカン」なども類似の観念で,広く未開社会・原始社会に共通の超自然的非人格的な力の観念をさす場合の用語となった。一般には“呪力”と訳されるが人間の働きと関係するときは“霊威”ともいう。自然や人事にかかわる非日常的な異常現象がおこった場合,それはマナのためである。したがってマナは神秘的力として畏怖される。マナは特定の対象に凝集化されたり,逆に拡散化し流動化する力とみなされた。たとえば,部族の首長が呪文をとなえることで雨が降り風が止むときが前者であり,そのようなマナを独占する首長が手で触れたり視線を走らせたりすると,その対象物がマナを帯び,通常の人々に危険となると信じられる場合が後者である。フレイザーはマナという用語こそ使っていないが,『金枝篇』(1890:永橋卓介訳,岩波文庫)のなかで聖化された存在がタブーの網の目にかこまれることを説き,マナとタブーとが紙の表裏の関係にあることを示唆している。つまり,最も尊崇される力は,最も禁忌される力なのである。このことが聖王の地位と関連する場合,聖なる王は彼が所有する聖なる力が衰えないうちに他の者と代わられねばならないという発想につながる。“王殺し”あるいは“神殺し”の観念である。この観念が生み出すアンビヴァレンツな状況は,宗教の観念の重要な特徴の一つとしてあげられる。マナは未開宗教・原始宗教に特有のものではない。民族宗教や民間信仰にも同種の観念が存在する。また世界宗教でもマナ観念の延長上に位置づけることのできる超越的力ないし法則がみいだされる。たとえば,日本の神道において天皇の“御稜威(みいつ)”という場合,これはマナ,とくに霊威との関係で理解できる。日本の宗教の原質を留めているといわれる沖縄の宗教には,マナの観念およびそれと関連する宗権の形態の範例がみられる。

【セジと神権政治】沖縄には“セジ”という語がある。「霊力」と訳されるがマナと同一の観念であって,セジが剣につけば霊剣,石につけば霊石,人につけば超人となる。火の神・水の神・海の神をはじめあらゆる自然の神々は,セジを発揮する神,つまり「セジ高き神」である。ところでこのセジが人間に顕現する場合の代表例が「オナリ神」である。オナリ神とは兄弟に対する姉妹の名称で,沖縄では妹姉は兄弟の守護神と考えられ,彼女たちを神格化してオナリ神と称する。したがって,沖縄の女性はすべて兄弟をもつ限りにおいてオナリ神でありセジを所有する。オナリ神信仰は沖縄における宗教の基本的観念で,この観念の展開が沖縄の統治形態を貫通していた。すなわち,村落にあってはその地域の草分けである根人が政治的実権を握り,根人の姉妹から選ばれた根神が宗教的権威を掌握する。この関係はさらに按司(あじ)とノロ,国王と聞得大君の関係に拡大され,沖縄における政教二重の統治形態を現出する。巫女としてのオナリ神は神の託宣を媒介するが,それにとどまらず彼女のセジによって兄弟の統治を守護し神権政治を正当化する根拠でもある。一般に宗権は世俗的権威や政治的権力を合法化する働きとして重視される。この場合,もちろん既存の地上的権威を補強するという保守的機能だけでなく,時機に応じて古い地上的権威を排し新しいそれを導入するための革新的機能としても働く。この種の宗権の機能は典型的には祭政一致的段階において明確な形をとる。近代社会における政教分離の理念は,政治や行政における権能を教会・宗派の干渉から切り離すことを目的としており,かならずしも宗教的権威自体の分離を意味するものではないが,宗権の地上的権威に関する正当化機能が弱められたことは事実である。

【カリスマ的支配】カリスマとは元来「神の賜物」「聖賜物」を意味した。このカリスマの概念を政治的支配の場面に応用し,支配の類型の一つとしてカリスマ的支配をおき,宗権特有の支配形態を明らかにしたのがウェーバーである。ウェーバーは歴史の脈絡のなかから政治的支配の類型として,カリスマ的支配・伝統的支配・合理的支配の3類型を抽出した。合理的支配の典例が官僚制的支配である。ウェーバーによれば,カリスマという用語は個人的人格のある資質を表すために用いられる。その資質によって並の人々から区別され,超自然的・超人間的,または少なくともとくに異例な力とか資質を賦与されているとみなされる。したがって,カリスマは純粋には個人的カリスマであり,カリスマ的人格の活動によって支配が遂行される形をカリスマ的支配という。カリスマ的指導者は預言者や軍事的英雄,特定の政治的指導者などに集中的に現れるが,彼の権威を正当化するのはなによりも彼が賜物としてそなえているカリスマそれ自体のためである。この点が伝統とか慣例によって正当化される伝統的支配,合理的制度によって正当化される官僚制的支配とは根本的に異なる。つまり,カリスマ的支配とは宗教的権威による支配にほかならない。一方,伝統的支配や官僚制的支配はそれぞれ伝統的ないし合理的な立法にもとづく規範を背景に支配形態をとるが,カリスマ的支配は指導者と彼への服従者との人格的関係が主軸となる。いいかえれば,彼がカリスマ的支配を遂行できるのは,服従者の絶対的支持があってこそであって,もしそれが無ければ彼は一個の孤立した狂人になりかねない。カリスマ的支配は個人的人格的な直接的紐帯にもとづくため,最も具体的かつ強力な支配形態であるが,同時に最も不安定で短期間に変化しうる形態である。烈しく瞬発的なインパクトで特徴とするから,古い秩序の正当化と維持とにも作用はするが,どちらかといえば既存の秩序を破壊し新しい秩序や世界観を生み出す動機づけの機能として働きやすい。したがってカリスマ的支配を通してみられる宗権の機能は,社会変動との関連において特色をもつといえよう。短命なカリスマ的支配が権威の持続的形態をとり,安定した基礎の上で存続しようとすると,そこにカリスマの日常化が始まる。個人の人格の直接性から,その個人の血縁的連続に支配の合法化をみようとする場合,そこに世襲的カリスマが発生する。また特定の役職の授受によってカリスマが伝達されると考えられた場合には,官職カリスマが形成される。前者はたとえば世襲的王権の系譜にみられ,後者の代表例がカトリック教会の僧職者階層である。これらの疑似カリスマの宗権的要素は漸次世俗化をたどる。

〔参考文献〕マックス=ウェーバー,世良晃志郎訳『支配の諸類型』1970,創文社