●ジャンヌ=ダルク
ヨーロッパ フランス共和国 AD1412 フランス王国
1412〜31 百年戦争に際して,イギリスと戦ったフランスの少女。今日われわれのみるジャンヌは,国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人がこうみたいと願ったジャンヌ像であり,国家主義的王党派的観点に貫かれている。イギリスの侵寇を受けたフランス王国の危難を救った神のおとめというイメージはすでに15世紀後半,ヴァロワ王家の正史ともいうべき『シャルル7世・ルイ11世伝』を書いたトマ=バザンによって定式化されたものであった。19世紀のフランスの歴史学は,この定式に安易によりかかっただけで,その実像を適切に掘りおこしたとはいえなかった。ジャンヌ関係の根本史料はルーアンで行われたジャンヌの宗教裁判の記録を第一とするが,19世紀中ごろに出版されたその記録の活字本には多分に不備があり,1960年代に入り,新しい校訂本の作製が開始された。この一事からうかがい知れるように,ジャンヌ研究はようやく始まったところなのである。ロレーヌの生村ドンレミを出て,1429年2月の末,「王太子」シャルル7世(ヴァロワ王家の唯一生き残った相続人であって,当時の史料にはふつう王太子と出る)が本陣を置くシノン城市に着くまでのジャンヌの動静には不明な点が多い。ドンレミ村近郊の城市ヴォークールールの守備隊長ロベールは,パリの王政府(イギリス−フランス連合王家が成立,当主はまだ幼いヘンリ6世)からシャンパーニュのショーモン代官職を預かる叔父の代理をつとめ,ドンレミ村の裁判領主である。ジャンヌの父親ジャコは村の有力者であって,村の代訴人としてロベールの法廷に出たこともあった。ジャコの娘ジャネット(村での愛称)はロベールを頼り,神の召命を受けたと主張して,王太子のもとへ行けるよう取りはからえと要求した。ロベールは,その立場にもかかわらず,王太子に味方している。ジャンヌがシノンに姿を現す以前,すでに王太子が情報を得ていたことは確かである。
当時ロワール中流オルレアンをイギリス軍が包囲していた。ジャンヌはそのオルレアン解放の作戦に投入された。そこでジャンヌに期待された役割はなんであったか。信仰の熱情と慣行を無視した戦闘指揮。これが兵士たちを刺激しなかったはずはない。ジャンヌの率いる槍小隊は日が暮れても戦闘を止めず,ついにイギリス勢の拠る砦の一つを陥した。それがきっかけで,イギリス軍はオルレアン前面から撤退。王太子は,そうなるだろうと計算していたのであろうか。神の召命を説く少女の信仰心の純正は,それが悪魔の側ではなく神の側であると確認されれば,人々の疑うところとはならない。しかし,同時に現実主義的実利主義的計算を立てる余裕もある。そういう意識構造の時代であった。
オルレアンの戦いののち,ジャンヌはシャンパーニュのランスで行われた戴冠式に出席し,ついで北フランス諸都市を歴訪する「王の巡行」に,ヴァロワ王家の「神の代理人」として,華麗な衣裳に身を飾って同行した。王太子シャルルの自己顕示であり,ヴァロワ王家の立場の示威である。ジャンヌの生涯を通じて,これが華であった。彼女を含む若手の将官団は,ノルマンディーに集結していたイギリス王軍との対決を主張したが,王太子顧問会議はブルゴーニュ侯との和議の実現を戦略の要とした。もともとブルゴーニュ家との不和がヴァロワ王家の苦境を招いたのである。和議は1435年に実現した。それ以前,1430年5月,ジャンヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で,ブルゴーニュ方の軍勢に捕われた。身代金はイギリス王が支払った。王太子シャルルはなんらの意思表示も行わなかった。パリ大学神学部はジャンヌに異端の嫌疑をかけ,フランス王国宗教裁判官による宗教裁判を要求し,イギリス王家もこれに同意した。一信徒が聖職者の仲介をへずして直接神的なる存在と交流し,その命を受けたと主張すること,異端嫌疑の根拠はここにあった。「地上の教会」の組織原理が一少女の純な信仰によって試された。裁判は1431年2月から14回の審理を重ねた。5月28日,ジャンヌはルーアンの町の広場で異端を宣告されて世俗の権力の手にゆだねられた。世俗の権力とは,この場合,イギリス王家のルーアン代官である。彼は,慣行に従って,異端女を火刑に処した。 このルーアンの審決を,ローマ法王庁はまだ取り消していない。それでいて,法王庁は1920年ジャンヌを〈その生前の徳行により〉聖女に列した。こうして,いま,ジャンヌ=ダルクは異端女(魔女)にして聖女である。