●ジャックリーの乱 ジャックリーのらん
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【発端】14世紀中ごろ,イギリス王軍はノルマンディーとギュイエンヌ(ボルドー周辺)にあった。1356年,ギュイエンヌを父エドワード3世から預かるエドワード黒太子は,北上してポワティエ近郊でフランス王軍と戦い,これを破り,ジャン2世を捕虜にした。フランス王太子シャルルは,いち早く戦場を離脱してパリに戻り,摂政として王政の建て直しをはかった。その最初の仕事が,パリ商人組合長エチエンヌ=マルセルの指導する三部会との対決であった。三部会とはいっても,北フランスの有力領主・高位聖職者・都市上層市民といった有力諸団体と王権との協議機関であった。王権と三部会との協定は一応成立した。しかし理想主義者マルセルは,しだいに民衆の共和主義的要求にひきずられた。王太子は機をみてパリを脱出し,改めてサンリス,ついでコンピエーニュに三部会を召集した。北フランス諸都市に対して,パリではマルセル一味が孤立した。この状況下に,北フランスに農民一揆が発生した。それをラ=ジャックリー“ジャックリーの一揆”と呼ぶ。ジャックリーとは農民の総称である。
【決起】1385年5月18日,サンリス北西のオワーズ川沿いのサン=ル=デスラン村の農民が,たまたまパリに食糧を護送中の騎士の一行を襲撃した。犠牲者のなかに,シャンパーニュ方面王軍司令官ジャン=ド=クレルモンの甥のような名のとおった騎士もいた。事件の経緯は不明だが,それが領主側の過剰防衛を引き出し,領民側の反抗に口実を与えたことはまちがいない。摂政シャルルが,エチエンヌ=マルセル一味の動きに対抗して,パリ周辺の城砦の補強を命じた。その負担はそれぞれの城主領の領民の肩にかかったわけであって,一揆を決定した村の決断の契機はその辺に求められるとする説もある。領民側の猜疑と不安が領主側の防衛反応を過剰に刺激して,一揆はピカルディーからイール=ド=フランス・シャンパーニュに伝播し,さらに北のアルトワ・西の下ノルマンディー・東のマルヌ渓谷・南のオーセール地方にまでひろがった。散発的な一揆にとどまらず,ギョーム=カールないしカルルなる指導者のもとに結集した農民軍団が動いた。その数6,000と年代記などは証言する。オワーズ川沿いにコンピエーニュへ,ついでサンリス・エルムーンヴィル・モーと転戦した軍団は,6月中ごろ(日付は特定できない),ボーヴェ地方のクレルモン近郊で,ナヴァール王シャルルの軍勢と対決した。
系譜をたどれば,カペ=フランス王家の血脈に立つナヴァール王シャルルは,混迷の政局の指導権を握ろうと,400の騎士隊を率い,クーシーの城主など北フランスの有力領主層の支持をとりつけて,総勢1,000の槍騎士団を組織した。このプロの軍団が農民軍に突入すると,戦場は屠殺場になった。ギョーム=カールはその場で処刑されたと伝えられている。
【鎮静化】エルムーンヴィルの城を占拠したとき,パリの一隊が農民軍に協力したという。エチエンヌ=マルセルが派遣したジャン=ヴァイアン指揮下の一隊であった。パリ市政府はギョーム=カールの軍勢との共闘を考え,ある程度はそれを実行に移した。しかし,これも結局はマルセル一味の急進主義的政策の表現であって,王太子と妥協する道を選んだパリの上層市民は,ここにマルセルに対する反発を強め,ついに7月の末,マルセルはその同僚のジャン=マイヤールに殺害されたのである。各地の騷乱は,摂政シャルルの政権が確立されるにつれて鎮静化した。北フランス諸都市は,パリを筆頭にシャルルに対して態度を決しかね,王政府の術策の前に屈した。摂政シャルル,のちのシャルル5世は危機を乗り越えたのである。