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●シャクシャインの乱 しゃくしゃいんのらん

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 日高から釧路に及ぶ地域集団メナシウンクル(東の人の意)の惣大将シャクシャインを中心に,松前藩の収奪に抵抗しておきた近世最大のアイヌ民族の反乱。1669年(寛文9)6月シブチャリ(現静内町)を拠点として,一部地域を除く増毛から白糖にいたるアイヌがいっせいに蜂起した事件である。17世紀の前半,シブチャリ地方は,シブチャリ川(現静内川)をはさんで,東はメナシウンクル・西はシュムウンクルの部族に分かれており,メナシウンクルはカモクタイン・シュムウンクルはオニビシという酋長に率いられていた。この二つの部族間に漁猟圏をめぐる争いがおき,対立が深まっていた。商場(あきないば)交易への影響を懸念した松前藩は,再三にわたって調停を試みたが,解決するまでにはいたらなかった。当時,松前藩はアイヌに対する交易の独占化をはかり,商場知行制を敷き,アイヌ自らの自由交易を禁止したため,和人による不正が後を断たなかった。ことに1665年(寛文5)以降,松前藩家老松前蔵人広林のもとに交換レートは3倍にも引き上げられ,アイヌは生活を守るため,相互の漁猟区域を侵すほか途はなかった。またアイヌの往来は制限されたため,松前藩や和人商人に対する不満が高まった。その間,1653年(承応2)にオニビシはシブチャリの砦を攻めてカモクタインを殺害した。シャクシャインはカモクタインの後継者として酋長になり,対立をつづけた。松前藩はオニビシを利用して,アイヌを制圧しようと企て,和人の砂金採取人文四郎にオニビシとシャクシャインの調停を命じ,文四郎は館にオニビシを招いた。シャクシャインは館を襲ってオニビシを倒した。これによって部族間の抗争は激化し,オニビシの姉はアツベシ(厚別)砦で殺害された。しかしシャクシャインは調停を受けようと,シュムウンクルのウトマサと和解して部族間抗争は終結したが,ウトマサはその直後に死去した。死因は疱瘡とされたが,シャクシャインは,アイヌ部族間の分裂を助長しようとする松前藩による毒殺だと考え,蝦夷地・樺太・千島に居住するアイヌウタリ(同胞)に決起を促した。松前藩には,和人にアイヌを絶滅させようという謀略がある,アイヌの国に入り込んでいる和人の鷹打ち・舟子・砂金掘りをすべて殺し,その食糧を奪って松前へ攻め入り,和人を撃退して,アイヌの国を取り戻そうという呼びかけに,石狩・宗谷・利尻などの一部地域を除くほとんど全道に及ぶアイヌがいっせいに蜂起した。殺害された和人の数は太平洋岸で120人,日本海岸では240人に達するといわれる。また船舶も20隻ほど襲撃され,アイヌ軍はエトモ(現室蘭)まで進出した。松前藩は直ちに藩兵を派遣しこれに対抗したが,その数は地元の金掘り人夫を含めて約1,000人,シャクシャイン側は約2,000人に及んだといわれる。松前藩の急を聞いて幕府は,津軽・南部・秋田の各藩に出兵を命じた。松前藩はこの援助に加え,鉄砲を使用して有利に戦った。クンヌイから撤退を余儀なくされたアイヌ勢力は分断され,シャクシャインらはシブチャリの砦に立て籠った。しかし守りが固く,これを攻めあぐねた松前藩は,1669年(寛文9)10月,和義を結ぶと欺して,武装を解いて藩側の陣営を訪れたシャクシャイン以下74名を謀殺し,砦を攻め落とした。抵抗はその後もつづき,藩はその鎮圧に1672年(寛文12)まで丸3年も要した。この乱の結果,松前藩は厚岸以東を除く全蝦夷地に勢力をひろげ,アイヌ民族に対する政治的・経済的支配をますます強めた。また武器を取り上げ,その後の交易においても,武器となりうる鉄器の流入を制限してアイヌ民族の抵抗力を奪ったため,以後120年間,平和であった。シャクシャインの乱以前は1457年(長禄1),コシャマインの乱がおきているが,その規模はシャクシャインの乱には,はるかに及ばない。幕府にとってシャクシャインの乱は,島原の乱以来の大騒動であった。