●社 しゃ
アジア 中華人民共和国 AD
中国古代の祭祀施設の一つ。「社」の実態とその起源については,[1]土地神,[2]叢林崇拝,[3]樹木崇拝と土地神の結合,[4]「相土」なる人格神と自然神「土」の結合,[5]呪術的儀式の場,[6]聖地の聖力の象徴,[7]生殖器崇拝,[8]民族団結の中心,[9]原始社会集団の集会所など諸説が立てられているが,いずれも定説とはしがたい。西周以前には「社」の字はみえないが,殷代の卜辞には「土」なる神格がみえ,「社」の起源と考えられる。「土」は寧雨・寧風・求年の対象となる自然神の一つであるが,殷代においては比較的穏和な勢力の弱い神格であった。方角を冠して西土・南土などと称し,あるいは特定の邑名を冠して唐土・毫土などと称する用例がある。土と単に称する場合は殷の都城の神格である。西周時代にもこの土神が継承された。そして,「社」が確実に登場するのは春秋時代以降である。春秋時代には「社」は「稷」(周王朝の高祖神・最高の農業神)と結合して「社稷」と称され,諸侯の祖先神の祭所たる「宗廟」と併称され,国家の代名詞ともなったが,「社稷」なる統一的な祭祀施設の存在は確認できない。『左伝』などに具体的に現れるのは「社」である。春秋時代の「社」の機能としては,[1]日食・大水など自然災害の厭伏のための祭所,[2]軍事的機能。すなわち,出師にあたっては「社」の祭肉が戦士に頒給され,あるいは「社」の「主」(袖の依代)自体が携行される。[3]盟の場所,などがあげられる。「社」の神格の実態については明確なことは不明であるが,[1]魯国には「周社」「毫社」の2社があり,各々周系・殷系の民族的区別にもとづくものと考えられること,[2]魯国で毫社に人性を供した際,魯の開祖である周公がこれを饗けるはずはない,という批判が生じたこと(『左伝』昭公10年),[3]曹国の「社宮」に叔振鐸(曹の開祖)以下の衆君子(神)が会して曹の亡国を協議した,という曹人の夢の説話(『左伝』哀公7年)などから,「宗廟」とは別系統の一種の高祖神ともいうべき神格が「社」の祭祀の対象であった可能性もある。戦国時代に入ると,春秋以前の祭祀秩序が崩壊してしまい,「社」の神格も不明となり,諸々の憶説が立てられるにいたった。冒頭にあげた「社」の起源に関する今人の説は,このような戦国以降の見解にもとづくものが多い。漢代には国家祭祀としての「社」の制度が完成する。王宮の中門の外,外門の内において西に「社稷」,東に「宗廟」を左右に対置する。「社稷」は土壇の上に西に社壇,東に稷壇を別個に設置する。天子の社壇は東西南北および中央に青白赤黒黄の土を用いる(王行説成立以降の制度である)。「社稷」の神格については漢末にいたるも定説が成立せず,鄭玄の土神説(社は玉土の総称,稷は原隰の神)と王粛の人鬼説(社は句龍,稷は棄)とが並立した。国家祭祀としての「社稷」の制度は漢代の社稜2壇の形式が歴代王朝に基本的に踏襲されたが,明初にいたり社稷1壇に改められた。現在北京に残る清朝の社稷壇は明制に依るものである。また,この国家祭祀の末端に位置する半官半民の「里社」(民社)がある。早く先秦時代に集落単位としての「社」(二十五家一社説がある)がみえ,漢代では「里社」は父老の運営にかかり,春秋2期の祭祀が行われた。隋代の社倉・元代の社制の基盤はこの種の民社である。また,後漢以降明確に現れる純粋の民間信仰としての「土地爺」信仰がある。これは当初は冥界神としての泰山(太山)信仰に結合し,唐代以降,都市の「城隍神」信仰に結合する。中華民国時代の華北農村では「土地爺」の祭祀施設としての「土地廟」があり,「関帝廟」とともに最も普及した祭祀施設であった。また,六朝以降,造像・斎会・講経・写経のための邑会(念仏結社)系統の社,あるいは道教系統の社などサークル的な「社」が成立し,唐・五代には三宮(社官・社長・録事)の幹事が置かれ,規則(社規)が定められ,宴会・親睦・俗講・葬送の相互扶助が行われた。