●霜月祭 しもつきまつり
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旧暦11月に行われる祭りをいう。新嘗祭(にいなめさい)に代表されるように穀物とくに稲の収穫祭としての色彩が濃いが,刈上げの祭りは旧暦9月から10月にくるのに対して霜月祭はだいぶ遅れており,刈上げとは異質の要素をもっている。北九州の佐賀県から福岡県につづく筑紫山地と,東松浦半島の村々にみられる丑の日祭・お丑さまという霜月初丑の日の祭りがある。家々では秋の稲刈に水口近くの3株を刈り残し,穂を揃えてワラのトビをかぶせておく。これを刈るにはちゃんとした田仕事の仕度をし,その3株を担いで「重い,重い」と唱えてもち帰る。台所の土間に木臼を置き,箕をのせて,担いで帰った稲束を置く。箕にはボタモチ・魚の煮物・なます・大根汁と栗の木の箸などを置いて供え,ろうそくの灯をともして戸主が祭る。田から稲を迎えて,稲魂を主神として霜月祭を行うのである。石川県奥能登地方の有名なアエノコトもこれによく似ている。元は霜月5日,今は12月5日に家の主人は床の間に種俵を積み,その上にサカキを挿す。主人は肩衣をかけ扇子をもった正装で苗代田に行き,田の神を迎えて帰り,家の入り口では家人がみな出迎える。炉端に招じ,風呂に入ってもらってから床の間に案内し,赤飯などの膳部を供える。箸は栗の木の新しいものである。これらのあいだ,主人は一つ一つをことばに出して,生ける田の神に話しかけるようにして懇切に接待する。丑の日祭とアエノコトは西と東と遠く隔てながら,よく似ていることが注目される。また共に霜月祭と共に2月にも稲魂や田の神を家から田に送り出すよく似た行事がある点までも共通している。アエノコトが田の神を迎えるのに対して,丑の日祭は稲穂に宿る稲魂を迎える点ではより古形をもつとも考えられよう。丑の日祭の北九州よりもさらに外帯の南の島々にも霜月祭がみられる。奄美大島の冬折目(フユウンメ)や沖縄本島北部の国頭地方の芋折目(ウムウイミ)がそれである。大島郡瀬戸内町瀬祖の冬折目は旧暦11月の初庚の日に女神人たちによってトネヤという祭場で行われる。集落の家々からはその年の初なりのイモを供える。イモにはヤマン(栽培品種の山芋)・ウム(里芋)・ハヌス(甘藷)があり,それらを煮て別の高膳に盛り上げられる。最高女神人のノロを中心に,スズノロ二人がその両脇に並んでトネヤの正面に白衣をつけて座る。その前にイモの高膳が供えられる。ノロたちは椀に注がれたミシャクという白酒をもって芋の豊作の唱え言をして飲む。それから供えられた芋を女神人たちが食べる。冬折目は神であるノロたちが芋を食べ豊作を祝福する祭りなのである。南島の霜月祭はこのように里芋や山芋の収穫祭となっていることは霜月祭の古い形を物語っているように思われる。さらに九州一帯では霜月祭はこうした豊作物の収穫の祭りとは別に,家々や同族集団の神である内神(うちがみ)の祭りとなり,家々の竈神の祭りとなっているものも多い。中でも長崎県北松浦郡の江迎町中尾免や吉井町上吉田免の霜月祭の雪祭は国の無形文化財として指定を受けているが,これらは家の竈の前で祭りを行った後で,祭りに用いた手杵や供物のシトギや里芋などを莚に包んだものを女組は納戸に引き入れようとし,男組は竈に入れようとして引き合い,女組が勝って納戸に納めるオクライレ(お蔵入れ)という珍しい行事がある。これは古く1年の終わりの霜月祭にはその年用いた杵などの用具を竈に焼却する古習を納戸や蔵に隠し入れることに改めたことの儀礼化とみることができよう。そうしてみると霜月祭は1年の生活を終え閉じる祭りで,二月祭が1年の生活を始め開く祭りであるのに対応しているものと思われる。その生活のなかで稲作の比重が強大となり,稲の収穫祭・新嘗祭としての色彩を強めたものであろう。〔参考文献〕柳田國男「祭日号」『定本11』筑摩書房
堀一郎「奥能登の農耕儀礼について」『日本宗教の社会的役割』1962,未来社
小野重朗「霜月収穫祭小論」日本民俗学107号,1976
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