●ジミー=スチーヴンス
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生まれた年も明らかではない謎の人物であるが,バヌアツの独立過程において反乱の指導者として国際的に注目された人物。彼のフルネームはジミー=ツポウ=パンツツン=スチーヴンスというが,ツポウはトンガ,パンツツンはバンクス諸島(バヌアツ北端の島)の名である。彼の祖父は,トンガ王族と血縁関係のあるトンガ女性とともにサント島に流れてきて南岸の離島に住み,5人の息子と数人の娘を生んだが,その次男ジョン=スチーヴンスがジミーの父である。ジミーは主としてサント島の島都ルガンヴィルで少年期を過ごした。
正規の教育はほとんど受けないまま,彼は少年時代からいろいろな民間会社に雇われて転々とし,米軍がサント島に駐留中はブルドーザーの運転をしたが,その時事故で脚に負傷した。入院中に面倒をみてくれたのは原住民で,白人はまったく相手にしてくれなかったため,そのころから原住民のためにつくす決心をしたといわれる。その後一隻の船を入手して,北部ヴァヌアツの島々を巡航し,コブラの集荷や船客の運送をしながら,白人に奪われた原住民の土地の奪還を計画するにいたった。巡航中に多くの島民と親し〈なったが,サント島内陸のブルク酋長がジミーの計画に関心をもち,その支援の下にジミーはナグリアメルという運動を始めた。それは豚を殺す儀礼のさい,酋長の身分の象徴として使われる植物ナンガリアと,平和の象徴とされる植物ナムメレとを組み合わせた名称で,1960年代前半から,その運動の集会がサントで開かれたが,英仏の統治当局側は警察力で集会を阻止した。
1966年から白人に奪われていた土地を,奪還するための行動を開始したので,サント島民の多くがジミーを支援した。しかし,取り戻した土地は伝統的所有者の手に渡さず,ナグリアメルの所有としてジミーが支配する政策のため,ナグリアメル運動の支持者は離脱しはじめた。
1971年,イギリス系の政党「ニュー=ヘブリテス=ナショナル」(今のヴァヌアアク=パティ)が結成されると,フランス側はそれに対抗しうる政治運動として,同年国際連合に民族自決権の行使について請願したジミーのナグリアメル運動を支持する決定を,1975年にはジミーをパリに招待して,大統領と会見させた。
1975年の総選挙でジミーは当選し,一時はヴァヌアアク=パティに協力するかにみえたが,そのころアメリカのフェニックス財団が,特異な自由社会実現のためにジミーを利用しはじめ,その援助のもとに1977年ジミーはサント島を中心に北部諸島をナグリアメル連邦共和国として,独立させる憲法の制定準備をすすめた。
ジミーは,マエウォ島にヴェトナム難民を受け入れる提案を1979年に行ったが,マエウォの酋長たちの反感をかい,当時独立前の英仏双方の政治指導者にも強く反対された。
このころまでにジミーはチャーチ=オブ=クライストで洗礼を受け,自らチグリアメル連邦の大統領モーゼ酋長と称し,またモリという酋長の称号を取り入れて,ジミー=モリ=スチーヴンスと称した。さらに多くの島々に影響力をもつ目的で,異なった島々の女性と結婚するという方法もとった。一方アメリカ・オーストラリアなどを訪問して自己宣伝につとめた。
しかし,キリスト教諸教会からの支持が得られないため,自らローヤル=チャーチ=オブ=ナグリアメルという教会を創設,サント島のヴァナフォに本部を置き,北部諸島のチャーチ=オブ=クライスト信徒を,その新教会の支持者とした。
ヴァヌアツの独立準備がすすみはじめた1980年5月,フェニックス財団の支援を得たジミーは,サント島でヴェマラナ臨時政府の独立を宣言し,自らその首相と称した。ヴァヌアツ独立のさい反乱勢力ヴェマラナ臨時政府は,武力制圧によって抹消されざるをえなくなった。結局独立後のヴァヌアツ政府の要請で,パプア=ニューギニア軍が武力鎮圧を決行し,ジミーは捕えられて投獄された。
ジミー=スチーヴンスは,1984年10月現在なお刑務所にいる。