●島津久光 しまづひさみつ
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1817〜87(文化4〜明治20)生母は島津家28代斉興の側室岡田氏由羅。1859年(安政5)兄島津斉彬の遺言により,長子島津茂久(忠義)が藩主となるや後見となり,藩政の実権を握る。大久保利通をよく用いて,いわゆる誠忠組の士らが脱藩上京して過激な倒幕運動にはしるのを,他日挙藩勤王を約して慰留し,藩力の分裂を防いだ。1862年(文久2)3月率兵上京。久光の上京を倒幕挙兵と勘違いして伏見寺田屋に集合した過激派を鎮撫して,孝明天皇の勅意にこたえた。5月,勅使大原重徳に随従東下し,一橋慶喜の将軍後見職・松平慶永の政事総裁職補任の勅旨を奉戴せしめた。帰途,生麦事変が勃発し,翌年7月,英艦7隻が賠償を求めて鹿児島湾に来襲したのを撃退。しかし時局は,公武合体から倒幕に激変したので,西郷隆盛を軍賦役に任じ,時局の打解をはかった。王政復古後は政府の開化政策に不満をもち,玉里邸に退隠して修史に従事。西南戦争には中立。
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