●シベリア出兵 シベリアしゅっぺい
アジア 日本 AD1919 大正時代
1919年(大正8)から1924年にいたる期間において、日本およびアメリカならびにイギリス・フランス・イタリアなどの諸国が、チェコ軍救援を名目として、実は口シア革命に対する干渉を目的に、はるばるシベリアに出兵した事件をいう。日本の軍隊は、他国の軍隊が撤兵したのちも居座って、シベリアに単独駐留をつづけたが、結局は失敗してしまった。
1918年8月2日において、日本政府はシベリア出兵を宣言したが、実は1カ月前の7月に、日本・アメリカ・イギリス・フランスは、実に総兵力2万4,800人、そのうち日本軍は1万2,000人の連合軍を、極東のシベリアに送ることを協定した。日本の支配階級のシベリア出兵に対する意見は、出兵という点では一致していたが、しかしながら積極的な出兵論と多少は消極的ともみられる出兵論の二つが存在し、対立していた。積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく、日本は主体的にしかも大々的に出兵を断行せよという、参謀本部および外相本野一郎ならびに内相後藤新平たちの出兵論があったのに対し、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定の出兵論が、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに政友会総裁の原敬たちによって唱えられて、これら二つが対立していた。そして妥協案が、やがて成立した結果、実質的には独自の出兵であるが、形式的には対米協定の線で、日本はシベリア出兵を行うことになった。以上のいきさつをへて、日本政府は、〈アメリカ合衆国の提議に応じシベリアにいる、チェコ軍救援のために出兵する〉という宣言を行うと、すぐさま、協定全兵力をウラジオストックに送ったばかりではなく、厚顔にも協定を無視することを意にもかいさず、平気でザバイカル方面に2個師団の大軍を出動させ、そのあともますます増兵を重ねつづけ、実に7万3,000人の日本の大軍が、進軍を開始し、東部シベリアの全要地を占領するとともに、可能な範囲内において軍事的意図を秘めた軍用地図を作成したという。しかし“天の時”は、必ずしも日本軍に幸いせず、極寒のシベリアにおいて、アメリカの日本出兵抗議を無視してきた日本軍も、1919年1月から、労働者・農民などで組織された非正規軍のパルチザンなどとの戦いに苦戦し、点と線の確保すなわち交通の要地を確保するのがせいいっぱいという思いもかけなかった守勢に立たされ、反革命軍の後押しをしてみても、強固な反革命政権を樹立することに日本は結局のところ失敗を重ねるのみであった。この1919年秋において、連合国が後押しをしていた反革命のコルチャック政権は赤軍と戦って決定的な大敗をこうむり、歴史の歯車を止めようとした無謀な干渉は、ついに失敗に終わるだろうということが、誰の目にも明らかになってきた。このあいだ、シベリア現地における日本とアメリカ両軍の摩擦も増加する一方であった。まずアメリカが、1920年1月にシベリア撤兵を宣言し、この年の6月までには、日本を除く各国はみなシベリアから引き揚げていった。1920年3月12日にソヴィエトのパルチザンがニコライエフスクの日本軍を武装解除したが、そののち、同年5月25日にニコライエフスクで日本領事らが、パルチザンとの休戦協定を破って殺された。これを尼港事件と呼ぶ。1922年6月24日に政府は、ついにシベリアから撤兵する旨を声明した。そして10月25日においてシベリアからの撤兵を完了した。シベリア出兵の戦費は、当時の金で約10億円という巨費をむだに使ってしまった。死者は約3,000人の多数に及んだが、しかも悲惨なことに、シベリアの凍傷者は全軍の約3割もあった。
