●師範学校令 しはんがっこうれい
アジア 日本 AD1886 明治時代
1886年(明治19)制定。戦前におけるわが国の師範教育を基礎づけた法令。【教員養成教育の成立】わが国における教師の養成は,1872年の東京の師範学校設立に始まる。同校には1875年,「中学師範学科」が付置された。大阪・仙台・名古屋・広島・長崎・新潟にも,1874年までに官立師範学校が設けられた。また,各府県には教授法の伝習を行う数多くの教員養成機関が成立した。東京師範学校と1875年開校の東京女子師範学校を除く官立師範学校は1878年までに廃止されたが,府県の公立師範学校に対しては助成措置がとられることになった。教育令期には,師範教育に関する法令が整備された。1879年公布の教育令は,学制よりも詳細に師範学校について規定していた。1881年には師範学校教則大綱が,1883年には府県立師範学校通則が定められた。教育令期には,府県の師範学校が一定の基準に従って整備されることになったのである。
【師範学校令の特色】1885年に初代文部大臣に就いた森有礼は,とくに師範学校の改革に抱負をもっていた。就任の翌年に公布された師範学校令は,森の意向を色濃く反映している。師範学校令の公布にひきつづき,同令に関連する文部省令などが制定され,戦前における師範学校教育ひいては国民教育の性格に方向づけがなされた。森は,学問と教育を分離する原則を打ち出し,教育は〈護国ノ精神,忠武恭順ノ風〉を国民にうえつける機能を担うものとされた。教師は学問的知識の伝達者であるよりも,まず国家主義的人格の体現者であらねばならなかった。そのため,師範学校では兵式体操を取り入れるなど人格形成の教育に力が注がれることになった。師範学校令第l条には,〈師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス。但,生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス〉と規定されている。この3気質は森の教師観を端的に示している。森は教師を〈国家必要ノ目的ヲ達スル道具〉ととらえ,教師に〈国家ヲ本尊トスル心志〉を求めた。国家権力の意志を代弁し,伝達する役割が教師に課せられたとき,教師には権力に対する服従性と命令者としての威厳をもつことが求められたのである。第2条以下では高等師範学校および尋常師範学校の性格について規定した。高等師範学校については,尋常師範学校や中等学校の教員を養成する官立の学校とした。当初,東京師範学校を母体とする高等師範学校(のちに東京高等師範学校)1校が設けられた。同校および1902年設立の広島高等師範学校は教育界に大きな影響力をもつようになる。尋常師範学校については小学校の教員を養成する学校とされ,各府県に1校設置された。師範学校令の規定をうけ,尋常師範学校生徒募集規則・尋常師範学校卒業生服務規則などが相次いで定められた。尋常師範学校は,のちに師範学校と称されるようになり,独特の校風が生み出される。その制度的要因の多くは師範学校令に胚胎していた。師範学校は学校系統上隔絶した位置を与えられるとともに,その教育内容は法によって細かく規定された。また,師範学校生徒は学資のすべてを支給されるなど厚遇された反面,学校や寄宿舎において軍隊的な規律を要求され,卒業後も一定期間教職に就くことを義務づけられた。ここから,着実ではあるが自由な発想に欠けるいわゆる師範タイプの教師が生み出されていった。
【師範学校令の影響】師範学校令は,1897年の師範教育令公布により効力を失う。しかし,師範教育令は師範学校令下に形成された教員養成の基本構造に変更を加えるものではなかった。その後も師範学校令下に確立された教員養成制度の基本は変わらない。ただ1943年(昭和18)の師範教育令改正により,師範学校は専門学校程度の学校となった。師範学校の教員に対する評価は,その偏狭さを否とする立場と専門性を是とする立場で分かれる。1947年の学校教育法制定により,新たに大学における開放制の教員養成制度が発足し,師範教育の歴史は幕を閉じた。