●地主・小作 じぬし・こさく
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地主とは,その所有する土地を貸与し対価として地代を得るもの,小作とは,地主から土地を借りて耕作し地代を納めるものをいう。たがいの存在は不可分なので,ここでは両者をまとめて一つの制度として記述する。【地主・小作制の発生】土地の貸借に媒介された関係は古く階級社会の発生と一致し,荘園制下での名主(みょうしゅ)と作人の関係などがあるが,歴史用語としての地主・小作制はとくに近世封建制の解体とともに,つまり江戸時代中期以降に始まる。農業生産力の上昇につれて本百姓内の階層分化がおこり,都市部の商品経済が農村部に浸透していった結果,本百姓のなかで高利貸しや商人を兼業して財を蓄積していく者がでてきた。それら富農層はしだいに農地を広げて地主となり,一方窮乏化が進む農民たちは上地を失って,小作農へと転落していった。
【明治維新後の変遷】江戸末期にはすでに崩壊寸前であったとはいえ,封建制の建て前は土地の売買を禁止していたため,地主への土地の集中は質入れなどの手続きによるものも多かったが,明治維新がその禁制を撤廃し,近代的な所有権を公的に認めたことが小作地の拡大を促進した。その法的な確認が,1873年(明治6)から始まった地租改正である。西南戦争後のインフレ・松方財政のデフレ政策が,改正地租の重圧に輪をかけ,農民層の困窮化をますます強め,1887年(明治20)ころからは大地主の出現が見られた。彼らはしだいに農業経営を離れて寄生地主化し,蓄えた富を銀行や商工業に投資してブルジョア化するものが増加した。すでに明治初期には全耕地の30%近くが小作地であったといわれるが,1890年(明治23)ころには40%に上昇し,1930年(明治5)には最高率の47%あまりにまで達した。しかし,そのころにはすでに地主勢力は衰退の道をたどり始めていた。そのおもな原因は,第一次世界大戦後の大正デモクラシーの民主的風潮のなかで権利意識を獲得しつつあった小作農による小作争議の頻発だった。小作農は,地主との契約関係にあるが,親子関係に擬せられるような江戸期の慣習をそのまま引き継いだため,1898年(明治31)に民法によって法的根拠が与えられ,両者は平等の立場にあるとされた。もちろんこれは法律上の建て前にすぎず,圧倒的に弱い立場にある小作農は,つねに生活の唯一の拠点である狭少な小作地を取り上げられる危険のなかで脅かされ隷従を強いられていた。小作争議の頻発に,政府は弾圧するかたわら,1930年(昭和5)に小作法を制定するなど小作権の強化のための試みを行い,また自作農創設事業にも着手し,生産力増強のアキレス腱になった零落する地主階級の保護に見切りをつけ始めた。その傾向は,1930年代の恐慌期には一層鮮明になり,戦争統制経済下では小作料の統制など地主の経済力低下のための政策がとられ,自作農の創設・大土地所有の減少が進んだ。したがって,第二次世界大戦後の農地改革による地主制解体は,ある意味では戦前の見直し策から連続的にとらえうる,当然の帰結だったともいえよう。
【地主・小作制の性格】以上に概観したように,地主・小作制の沿革は,それがもつ二重の性格を明らかにする。すなわち,一方では土地を所有・売買の対象とみる近代的契約概念を前堤としており,にもかかわらず地主と小作農の関係は一種の身分関係の要素を多分に残している,という点である。この性格をめぐって,戦前の日本資本主義論争のなかで,小作料を経済外的強制による封建的年貢と同じだとする説と,地主・小作制は資本の原始的蓄積過程の産物であり,小作料は先資本主義的な地代だとする説とが対立した。
地主・小作制が,封建制にもとづいてではなく,まさに封建制の解体過程に発生した点を考えれば,封建的残滓がいかに含まれていようとも,これを封建遺制と見ることはできない。商品流通経済の萌芽期・原蓄期の後に衰退したこの制度は,紛れもなく資本主義黎明期の産物だったのである。