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●執権 しっけん

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 [1]権勢を握ること。政権をとること。また,その人。『保元物語』(上・新院御謀叛思し召し立たるる事)に〈左府の執権によってまつりごと淳朴にかへるべくは〉とあり,『平家物語』(一・清水炎上)に〈内外につけたる執権の臣(註 平時忠)とぞ見えし〉とある。[2]記録所の弁官の別称。『玉葉』(文治3年2月17日)に〈記録所の弁の事,延久・保元とも蔵人弁を執権となす〉とある。[3]院司の長官。院庁の別当。『吾妻鏡』(建久6年3月29日)に〈尼丹後二品。宣陽門院御母儀,旧院執権女房也〉とある。[4]鎌倉幕府の職名。政所や侍所の別当を兼任し,将軍を補佐して幕政を統括した。将軍実朝のとき,1203年(建仁3),北条時政が任ぜられてから北条氏が世襲した。『吾妻鏡』(建仁3年10月9日)に〈甲冑母廬等を著くる次第の故実,執権ことごとくこれを授け奉る〉とある。『沙汰未練書』に〈両国司トハ,将軍家執権御事也。執権トハ,政務ノ御代官ナリ〉とみえる。また『武家名目抄』(職名四の一)に〈執権は君主を補佐し,政務を統領せる重職にて,公家の職掌に比すれば,摂関大臣の任に当れり。依て或は理非決断の職と称し(吾妻鏡に見ゆ)又は判断の職といふ(太平記に見ゆ)〉とある。[5]室町幕府の管領の別称。また,関東管領の補佐役である執事の称。さらに,のちに主家を補佐する諸大名家の重臣の称。『鎌倉殿中以下年中行事』に〈管領執権と云事,毎々諸人申条しかるべからず。管領一人をば執権と申べき也〉とある。『鎌倉大草紙』に〈上杉修理亮憲藤,暦応元年より関東の執権を仰せ付けられ〉とみえる。また,『細川勝元記』に〈細川右京大夫は,今出川殿の執権にて〉とある。[6]江戸時代,家の事務をとりしきった大名・小名の家臣の職名。歌舞伎『毛抜』に〈手前は小野春道が執権八剣玄蕃と申す役に立たずでござる〉とある。

【執権制】鎌倉幕府における執権の起源に関して,『武家名目抄』(職名四の一)には〈鎌倉草創の時,大江広元政所別当として政事を摂行しければ,当時称して執権といへり。これ当職の権輿なり〉とみえる。執権の職名があきらかになり,執権政治が成立するのは,北条時政にいたってである。1203年(建仁3)9月比企氏一族を滅ぼし,頼家を幽閉した時政は,実朝を鎌倉殿と仰ぎ自ら政所別当となった。このとき,時政一人の署名だけしかない「下知状」(建仁3年10月5日,関東下知状案,鎌倉遺文1388号)の文書を用いて幕府の政務を執行した。この時点で,『吾妻鏡』は,時政を執権と呼ぶようになる。1213年(建保1),執権北条義時は,和田合戦に勝利し,侍所別当の地位を兼ねた。ここに,執権は幕府内で実権を握り,執権政治の確立をみた。1224年(元仁1),執権北条泰時は連署の職を設け,北条時房をこれに任じた。執権と連署は“両執権”と呼ばれることがあった。北条経時が執権につくと,訴訟制度の刷新を図るなかで,幕府の裁判権行使者が将軍ではなく執権であることを顕示するにいたる。1243年(寛元1)の法に〈訴訟の事評定あり,事書を見参に入れ施行すべきのよし仰せ下さるの後,御成敗遅々もっとももって不便,自今以後,奉行人に付して事書に任せ早々御下知状を成し上げらるべき也〉(追加法213条)と見えている。建長のころになり,政所の管轄に属する鎌倉幕政機関に,執権とくに得宗勢力が進出してきている。同じころ,所領の給与・安堵への権限の行使が進んでいる。政所下文に,従前のごとき家司の署判が見えなくなり,執権と連署の二人だけがそれを連ねる。北条時頼(5代)および時宗(8代)の執権期には,執権制が転機を迎え,北条氏の家督(嫡流)を頂点とする独自の専制体制に移る。これを,北条義時の別号(得宗)にちなんで“得宗専制”という。執権は代々得宗家から出たが,幕政は執権としてよりも得宗であることによって左右された。幕府滅亡のときも,北条高時はすでに執権の地位を守時に譲っているが,実質的な権限は高時が行使している。

〔参考文献〕佐藤進一『日本の中世国家』1983,岩波書店

古事類苑』官位部2