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●十干十二支 じっかんじゅうにし

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【定義と起源】えと(干支,兄弟)の名でも知られ,干は甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)を,支は子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)を総称する。中国太古の黄帝のとき,その師大橈なる者が初めてつくったと伝え,夏の帝王記には孔甲・履癸・胤甲など十干の文宇が現れ,『書経』には夏の禹王の治水に関し辛壬・癸甲の文字が日の名称として記され,殷代には日を数えるために十干が使われた。けだし殷代以前のことは全く伝説的でそのまま信じることはできないが,おそらく十干は太陰月の1カ月を上中下の三旬に分け,その一旬10日ごとの毎日につけた記号に発祥し,十二支は12カ月のそれぞれに特有の天候・気象・行事に関連してつけた記号にもとづき,10日12辰と称し,殷代に考え出された10進法と12進法による数字に相当する。一方古代バビロニアで,前27世紀より同20世紀のあいだに,日の黄道または月の白道沿いに点散する星座から12を選択して12宮が設けられたことは,同地出土の境介石に蠍・射手など12宮に相当する星座を描いた浮き彫りの彫刻が認められる点から知られ,エジプトでも前15世紀ごろから黄道12宮が用いられ,イシス神殿にはその浮き彫りが遺存している。これら中近東の12宮思想と中国の十二支のあいだになんらか相互の影響が考えられる。また殷代には10と12を組み合わせて60の番号を考案し,日を表すようになったので,中国河南省安陽県の殷墟から出土の亀甲や獣骨に刻まれた文字にそれが見られる。戦国時代(前3〜前5世紀)には10日を母,12辰を子に見立てて10母12子,後漢時代(1〜3世紀)には幹枝に配して十干十二支の名称が現れた。戦国時代の中ごろ,木星が約12年間で天を一周することからこの星の位置をもって年を記すようになり,これが十二支をもって,さらには干支の組み合わせをもって表示する方法へと発展し,後漢の初めごろ一般に知られる干支紀年法ができ上がった。すなわち日と同様60年を一周期とする一元の単位が成立した。これと併行して十干は陰陽五行説と結びつき,木は甲乙,火は丙丁,土は戊巳,金は庚辛,水は壬癸と五行に十干の二つずつがあてられ,その二つは陽すなわち兄と,陰すなわち弟を表すものとされ,これが日本に伝わると甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・巳(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)壬・(みずのえ)・癸(みずのと)と読まれた。さらにこれを十二支に配し,木の兄子(ね)・木の弟丑(うし)・火の兄寅(とら)・火の弟卯(う)・土の兄辰(たつ)・土の弟巳(み)・金の兄午(うま)・金の弟未(ひつじ)・水の兄申(さる)・水の弟酉(とり)・木の兄戌(いぬ)・木の弟亥(い)などと呼ばれた。さらに61歳になると生まれた歳の干支に戻ることからこれを還暦と称するようになった。

【日本の干支を示す初期史料】わが国に干支が伝わった確実な年月は明らかでなく,『日本書紀』では神武天皇より以後年月日ともに干支で記され,『古事記』も崇神天皇より推古天皇まで死亡の年を干支で記しているが,いずれもその時代に使用されたことを実証するわけではない。今日遺存する干支紀年の初期史料としては,法隆寺金堂中の間の本尊金銅釈迦三尊の舟形大光背裏面に刻まれた造像記があり,〈法興元丗一年歳次辛巳十二月〉〈癸未年三月〉の文が見え,この像造立と同時の刻文と考えられ,それぞれ621年(推古天皇29)および623年(推古天皇31)と推定される。また紀伊国隅田八幡宮所蔵の鏡銘には〈癸未年八月日〉云々とあり,これは応神・仁徳朝ころか,允恭朝ころの癸未年であろうと推定されている。その他,伊予国温湯碑の銘には〈法興六年十月歳在丙辰〉の文が読まれ596年(推古天皇4)にあたる。これらの史料に照らして少なくとも推古朝には干支の使用があったと解せられよう。ついで中宮寺天寿国曼荼羅では〈歳在辛巳十二月廿日癸酉日入孔部間人母王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩〉とあって,日にも干支をあてた例が知られる。597年(推古天皇12)正月には初めて時法をも決め,子を真夜中に,十二支を時刻に配した。

【古代中世の干支表示】古代より中世にかけての時刻の記し方を文献で拾ってみると,『日本書紀』では684年(天武天皇13)に日没時を昏時・人定時,『続日本紀』778年,(宝亀9)寅時,790年(延暦9)辰時,巳時がみえ,『三代実録』には辰漏上四刻,『吏部王記』に未下刻,『山槐記』に卯上刻,『台記』に丑螺後,『吾妻鏡』に辰一点・卯四点・『愚管記』に戌一点・辰初点・半更・『後愚昧記』に酉終・『師守記』に丑始,『満済准后日記』に卯未刻・午半,『薩戒記』に辰終刻・亥初刻,『後法興院記』に酉刻終・戊刻終,『御湯殿上の日記』に夜部四つ時分,『言国郷記』に八つ下刻・五つ時・七つ時・九つ時,と『吉野詣の記』には五つかひ(貝)の記載があって時刻表示の大体を察することができる。近世は昼夜を12時にコウ※注1※十二支をあて,報時の鼓数は子午を九つ,丑未を八つ,寅申を七つ,卯酉を六つ,辰戌を五つ,巳亥を四つとし,子より巳,午より亥までは各々その数が同じであるための昼夜暁昏の幾つとして区別した。

【方位の干支と属星信仰】干支はまた方位にも用いられた。北朝鮮平壤の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から出た陰陽道の卜占器具である弐盤(ちょくばん)は方盤の上に円盤を重ねたもので,『唐六典』を参酌すると,円盤には二つの輪帯に陰陽道の十二月将と十二支の文字が,方盤には四重の方廓帯中,最もなかの帯に十干,その外の帯に十二支の文字が記されており,十二支は子が北,午が南,卯が東,酉が西,丑寅(艮)が東北,辰己(巽)が東南,未申(坤)が西南,戌亥(乾)が西北に配され,十干は甲乙が東方に,丙丁が南方に,庚辛が西方に,癸壬が北方に置かれ,また辰巳と癸亥の両方角には巳,未申と丑寅の両方角には戊が置かれる。これは陰陽五行説がからんでいるからで,木は東方,火は南方,金は西方,水は北方,土は四方のあいだにあたる四つの方角にあてられる。このような干支の方位配当がわが国にも伝わり,平安時代には多くの禁忌が設けられ吉凶卜占に利用された。たとえば東北の丑寅を鬼門,西南の未申を裏鬼門と称して忌むのは周知である。前漢武帝のとき(前2世紀)文人東方朔の著と伝える『神異経』に東北方に鬼星の石室があってこれを鬼門と称したとあり,東周の時代(前6世紀)に成立した『山海経』には東海慶朔山に大桃樹があって蟠屈三千里,その枝東北に向き鬼門と称し万鬼が出入すると述べられ,上古中国よりわが国に伝わった俗信であるが,平安時代には比叡山延暦寺が都の鬼門を制御するため建てられたとの説が生じた。時刻でも子時を忌むことが流行したが,子は陰陽の始終でこの時刻は出行すべからずとされた。方位には吉方もあり,今日東方詣と称し,正月に社寺参詣をする風習が残っているが,吉方は甲と己の歳は寅卯のあいだの方位,乙と庚の歳は申酉のあいだ,丙と辛の歳は己午のあいだ,丁と壬の歳は子亥のあいだ,戊と癸の歳は巳午のあいだの方位である。陰陽道では生まれた歳の干支を本命といい,これを北斗七星や北極星に結びつけ,この星を祭って息災延命を祈る本命祭(属星祭)が盛んとなった。たとえば貧狼星は子の人,巨門星は丑と亥の人,禄存星は寅と戌の人,文曲星は卯と酉の人,廉貞星は辰と申の人,武曲星は巳と未の人,破軍星は午の人の本命星で,密教でも『北斗七星延命経』で説かれている。

讖緯説と干支】なお中国では,前漢末(前1世紀)から王朝交代の理論として甲子革令,辛酉革命など予言説である讖緯説が流行し,わが国にも伝わって聖徳太子はこれを政治理念に取り入れ,推古朝甲子の歳に十七条憲法を発布したといわれ,平安朝以降この二つの干支の組み合わせにあたる歳は元号を改める慣例が生じた。

〔参考文献〕大西正男『十干十二支の成立の研究』1975,大西先生論文発刊会

飯島忠夫「陰陽五行説」岩波講座東洋思潮1934〜1935,岩波書店

高田真治「易の思想」岩波講座東洋思潮1934〜1935,岩波書店

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