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●七年戦争 しちねんせんそう

ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1756 神聖ローマ帝国

 1756〜1763。シュレジエンをめぐるプロイセンとオーストリアの戦争(オーストリア継承戦争中の第一次シュレジエン戦争・第二次シュレジエン戦争に続く第三次シュレジエン戦争),および海外植民地をめぐるイギリスとフランスの戦争の総称。オーストリア継承戦争の拡大された続編ともいえる国際的戦争である。

【前史】新大陸植民地におけるイギリスとフランスの対立は,1754年以降すでに戦争状態になっていたが,(フレンチ=インディアン戦争。正式の宣戦布告は1756年),この状況でイギリスは,ドイツにおける領国ハノーヴァーの安全をはかるために1756年1月プロイセンとウェストミンスター協定を結んだ。それに対し,従来オーストリアと敵対してプロイセンと結んでいたフランスは,同年5月,一転してオーストリアと同盟を結ぶ。この外交関係の逆転は“外交革命”と呼ばれるが,この“革命”の元来の策謀者はオーストリア宰相カウニッツである。オーストリアは彼の指導のもと,継承戦争でプロイセンに奪われたシュレジエンを奪回すべく,鋭意軍備を整えるとともに,プロイセンを外交的に孤立させるために,仇敵フランスとの同盟締結を策して外交工作を続けていた。それがウェストミンスター協定を契機として実現したのである。オーストリアはすでにロシアと同盟関係にあり,ザクセンもオーストリアと通じていたから,プロイセンはオーストリアとその同盟国によって完全に包囲された。これに対しプロイセン国王フリードリヒ2世は,オーストリアとロシアが戦争準備を開始したことを知ると,敵の機先を制すべく,1756年8月突如ザクセンに侵入する。これが七年戦争の始まりで,史上最も典型的な“予防戦争”の例である。なおドイツ(神聖ローマ帝国)の帝国議会はプロイセンに対する軍事懲罰を決議し,ドイツの大部分の国,またスウェーデンもオーストリア側について参戦したから,プロイセンは,イギリスからの資金援助は期待できたものの,ほとんど単独で,オーストリア−ドイツとヨーロッパ諸国を相手に戦うことになった。それは人口の上では500万人対9,000万人の戦いだったのである。

【戦争の経過】戦争の初期の段階ではプロイセンの勝利が続く。プロイセンは1756年10月に早くもザクセンを降伏させ,冬を越して翌1757年4月にはボヘミアに侵入してプラハを攻囲する。しかし6月にはコーリンの戦いで敗れてザクセンとシュレジエンに退く。その上東からはロシア,北からはスウェーデンがプロイセン領に侵入,西では同盟国ハノーヴァーがフランス軍に破れて,プロイセンは一転して窮地に陥ることになる。しかしフリードリヒは屈せず,1757年11月にはザクセンのロスバハでフランス軍を,12月にはシュレジエンのロイテンでオーストリア軍を破って武名を全ヨーロッパにとどろかせた。とくにロスバハの勝利は,ドイツ人のフランス人に対する最初の勝利として,全ドイツにセンセーションを巻きおこしたのである。フリードリヒはさらに翌1758年8月,オーデル河畔のツォルンドルフでロシア軍を破ることができたが,同年10月ザクセンのホッホキルヒでオーストリア軍に破れ,歩兵の三分の一を失う打撃を受けたのちは,完全に守勢に立たされてしまう。1759年8月オーデル河畔クーネルスドルフで5万3,000千のプロイセン軍は7万のロシア=オーストリア連合軍と戦って壊滅的な敗戦を喫した。このときロシア=オーストリア軍が無防備のベルリンを占領しなかったことは“ブランデンブルクの奇跡“といわれた。1760年11月にフリードリヒは死力をふるってザクセンのトールガウでオーストリア軍を破り,戦いの出発点ザクセンを確保するが,もはやプロイセンの戦力は尽き果てていた。その上1761年にはイギリスで,プロイセンとの同盟政策をとっていたピット(大)の内閣が倒れ,新ビュート内閣はプロイセンに対する資金援助を打ち切ったから,プロイセンはもはや戦える状況ではなくなってしまった。ただし財政難はオーストリア側も同様で,オーストリアは1761年,戦争中にもかかわらず軍隊を削減しなければならなかったし,フランスも海外植民地の戦争でイギリスに敗れて,国力が尽き果てかけていたのである。ここで海外におけるイギリス・フランスの戦況を見ると,開戦後まずフランスが地中海で攻勢に出,イギリスの基地ミノルカを奪った。しかし1758年までは決定的な戦闘は行われておらず,この間イギリスは大ピットの強力な指導のもとで,北米カナダのフランス植民地の攻略を主要目標に定め,国の総力をあげて海軍の増強に努めていた。そして1758年7月まずルイスブールを攻め落としてローレンス湾を制し,さらにオハイオ峡谷に軍を進めて11月にはデュケーヌ(ピッツバーグ)を占領した。この間フランスでは,ピットのライバルであるショワズール公が,7万の軍を整えてイギリス本土上陸を準備していたが,1759年,イギリス海軍はラゴスキブロン湾の二つの海戦でフランス海軍を壊滅させて,フランスの企図を水泡に帰せしめた。制海権を奪われ,本国との連絡を絶たれたフランス植民地は,イギリス軍の攻撃に耐えられず,1759年9月には“心臓”ケベックが陥落,1760年9月にモントリオールがカナダの全フランス軍とともに降伏して,カナダはイギリスの手に堕ちた。これと並行してイギリス軍は,1760年までに西アフリカ海岸のフランスの全拠点を占領,また1762年までに西インドのフランス植民地グァダルーベ・ドミニカ・マルティニーク諸島を占領した。また1762年にフランスの画策でスペインが参戦すると,イギリスはスペイン領キューバ,さらに太平洋のフィリピンまでも占領したのである。他方インドにおいては,当初フランス軍が優勢で,マドラスを除くほとんど全南インドを制圧した。それに対しイギリス側は東インド会社の書記クライブが傭兵軍を率いて東北インドのベンガル地方から反攻を開始,1757年1月,ベンガル太守に奪われていたカルカッタを奪回して拠点を築き,引き続きフランス領シャンディナゴールを攻略した。そしてクライブは同年6月,プラッシーに布陣するベンガル太守の6万8,000の軍をわずか3,000の手兵で急襲して破り,ベンガルにイギリスの支配を打ち立てた。そして以後イギリスの制海権とも相まって南インドをも攻略,1760年1月のワンドウォッシュの戦いで大勢を決し,翌1761年最後のフランスの拠点ポンディシェリが降伏してフランスの抵抗は終わる。こうして海外を制したイギリスにとって,ヨーロッパ大陸での戦争の継続はもはや何の利益にもならず,大ピット失脚後のビュート内閣は,プロイセンにシュレジエンの領有を断念させて戦争を終結しようとしたが,フリードリヒがそれを拒否したため,前述のように援助金を打ち切る挙に出たのである。さて,イギリスに見捨てられ大陸で孤立無援となったプロイセンを救ったのは,オーストリアが最後の頼みとしていたロシアにおける政変であった。1762年1月ロシア女帝エリザヴェータが没し,5月にフリードリヒの崇拝者ピョートル三世が即位すると,彼は占領していた東プロイセンを返還してプロイセンと和平を結び,6月にはさらに同盟をも結んだ。ピョートルは翌7月には妃エカチェリーナによって廃位され同盟も破棄されるが,フリードリヒはこの7月になおロシア軍の援助を得てブルカースドルフでオーストリア軍に対する最後の勝利をあげることができた。その後ロシアは撤兵し,フランスも1762年11月フォンテーヌブローの仮条約でイギリスと和してドイツから撤兵すると,オーストリアももはや独力では戦い得ず,1763年2月ザクセンのフベルトゥスブルクで和約を結んだ。同月パリ条約でイギリスとフランス・スペインが講和し,ここに七年戦争が終わったのである。

【結果】プロイセンは7年間の大戦争を戦い抜くことによって,ヨーロッパ列強の一角に確固たる地歩を占めるとともに,シュレジエンを確保し,ドイツにおいてオーストリアに比肩する国としての地位を築いた。以後のドイツ史はこのプロイセンとオーストリアの並立関係,いわゆる“ドイツの二元主義”によって規定されるようになる。ヨーロッパの外交関係においてロシアの動向が大きな意味をもつようになったことも注目されるべきである。しかしこの戦争の最大の勝利国はイギリスで,イギリスは植民地でのフランスに対する勝利によって,世界第一の植民地支配国としての地位を確立したのである。