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●七月革命 しちがつかくめい

ヨーロッパ フランス共和国 AD1830 七月王政

 1830年7月,フランスで,王政復古以来の正統ブルボン王朝が打倒された革命。この革命の引き金となったパリ市民・労働者・学生の武装蜂起は,7月27,28,29日の3日間にわたり,この3日間は,“栄光の三日間”と呼ばれる。

【革命の背景】ナポレオンの没落後,フランスを支配したのは,ブルボン王朝による復古王政であった。もちろんフランス革命とナポレオン体制下における変革を経たのちである以上,純然たるアンシャン=レジームヘの復帰は不可能であり,いちおう立憲王政の原則がとられた。しかし選挙は,直接税納入額によって大幅に限定された直接制限選挙制がしかれ,国政は,大土地所有者と上層ブルジョワによって,基本的に支配されるところとなっていた。政治勢力としては,アンシャン=レジーム復活をもくろむユルトラ王党派,同じ王党派でも自由主義的改革をも一部認める立憲王党派,あるいは中小商工業者を中心とした制限選挙反対派,ナポレオンの偉業をたたえる軍人などのボナパルティスト,さらには知識人層や労働者・学生のあいだに根をはっていた共和派,一部に台頭してきた社会主義者などが存在しており,複雑な対立関係を形成していた。1824年ルイ18世死後,国王になったシャルル10世は,もともとユルトラ王党派の指導者であり,その支配下に反動政策が強められることになった。自由主義に向かう時代の潮流に反した国王の反動政治や,折からの経済危機の深刻化が,政治的・社会的動揺を激しくした。こうしたなかで行われた1830年春の選挙では,反対派が与党勢力に100議席あまりの差をつけて大勝した。対策として国王は,7月26日四つの王令を発した。その内容は[1]出版の自由の停止,[2]未召集の新議会の解散,[3]選挙資格制限強化,[4]9月に新選挙法による再選挙,というものであった。

【革命の展開】これらの王令は,事実上のクーデタ宣言に等しく,反対派は,直ちに反抗ののろしをあげる。最初に行動を起こしたのは,出版統制の直接の対象となったジャーナリストたちであった。自由主義派の新聞「ナショナル」編集局に集まった43人の諸新聞編集者たちは,国王政府の非合法性を訴え,公然たる反抗を市民に呼びかけた声明を公にした。27日,王令に対抗して予定どおり諸新聞が発行されると,国王側は警察によって新聞を没収させ,印刷所を抑える措置にでた。しかし,この強引な弾圧のやり方は,市民のあいだに逆に反感を募らせる。あちこちで抗議集会が開かれ,共和主義の青年たちは街頭で民衆に反抗を呼びかけた。理工科大学などから学生たちもこの動きに呼応した。1827年に国王によって解散させられていた旧国民衛兵の市民たちが,保管していた武器を手にかけつける。自由主義派の商工業者は,自分たちの商店や作業場を休みにし,その職人や労働著たちも隊列を大きくする。パリの東部に広がる労働者街区をはじめとして,要所にはバリケードが築かれ,武装蜂起が本格化した。翌28日,こうして蜂起したパリ民衆と政府軍とのあいだに,1日市街戦が展開された。蜂起に虚をつかれた政府軍が動員できたのは,8,000ほどの兵員にすぎず,しかも狭い街路は,民衆によるバリケード戦に有利に働いた。この日のうちにパリ市庁舎とノートルダム寺院が民衆によって占拠され,革命のシンボルである三色旗がひるがえった。29日正午にはブルボン宮やルーヴル宮もついに蜂起側の手におち,国王と政府軍の撤退したパリは,蜂起した民衆のものとなったのである。蜂起の先頭にたった共和派のなかには,一気に共和政を実現しようとする動きも存在したが,現実に革命状況を収拾していったのは,大銀行家ラフィットらを中心とした自由主義派の政治家たちであった。すばやく動いた彼らは,オルレアン公ルイ=フィリップを擁立,新たな王政のもとにブルジョワ支配の体制を実現する。それが七月王政の成立であった。この革命は,フランスを神聖同盟から離脱させ,ブリュツセルの蜂起を誘発してベルギー独立のきっかけをつくり,ポーランドの反乱やドイツ・イタリアでの動揺など,全ヨーロッパ的にも大きな影響を及ぼした。