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●七月王政 しちがつおうせい

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 フランスで,七月革命の結果,1830年8月にオルレアン公ルイ=フィリップを国王として成立した立憲王政。

【王政の基本的性格】ブルボン王朝正統主義を否定して成立した七月王政は,フランスの国王と臣民たちという関係をもはや原則とはせず,フランス人たちの王と市民の契約関係,という原則をうちだした。王権の神聖不可侵を定めた1814年憲章の修正が行われ,主権在民が原則上は認められたのである。しかし現実には制限選挙制が維持され,選挙資格は200フラン以上の直接税納入者,被選挙資格は同500フラン以上納入者に限られた。七月革命の1年後,選挙権保有者はわずかに17万人弱,全人口の0.5%にすぎず,この状態は七月王政期全体を通してほぼ変わらなかった。選挙改革運動が,やがて王政崩壊の一つのきっかけになる。七月革命を推進した中小商工業者や労働者をはじめ,国民の多数を占めていた農民も国政への参加を拒否され,つまり議会政治は大土地所有者や銀行家と一部の工業資本家のみのものとなり,政権を牛耳ったのは“金融貴族”ともいわれた金融大資本家たちであった。こうして,銀行資本を背景として議会に拠点を置く自由主義と,議会外の市民・労働者層の運動に支持基盤を求める共和主義の対立が,七月王政期の最も基本的な政治対立を形成した。

【産業の発展】七月王政期は,農業と手工業を軸とした古い経済体制から,産業革命の開始によって,新しい体制へと移行が本格化し始める時期にあたる。それを示すのは,たとえば鉄道建設の展開であった。建設政策や効用をめぐって意見対立はあったものの,1830年代末にはまだパリを中心としたほんのわずかにすぎなかった鉄道は,1848年には総延長1,930kmにまで拡大された。同時に運河や主要道路の整備が推進され,人や商品の流れをよくした。これら交通路の発展は,国内市場を整えるとともに人々の生活にも新しい様式を持ち込んだ。ただフランスでは,機械制工業の発展は,木綿工業や製鉄など,まだ産業の一部に限られており,産業革命の展開はイギリスほど急速には進まなかった。1848年革命前夜において,国民総生産の半分近くは農業生産によって占められている。だが新しい産業体制へと向かう変化の方向は明確なものとなったのである。

【社会問題の深刻化】七月王政成立に貢献したにもかかわらず,政治体制から排除された市民・労働者層は,王政成立直後から共和主義運動を強力に展開して王政と対立した。そのなかからは,やがて社会主義革命を求める潮流も,さまざまに形成されることになる。一方,産業発展に伴って増大しつつあった都市労働者たちは,独自の労働運動の流れを形づくり始めた。1831年,リヨンの絹織物労働者の反乱に続き,1832年には各地にストライキ運動が続発した。これらの動きに対して政府は,1834年のパリにおけるトランスノナン街の虐殺で知られるように,徹底した弾圧で臨んだ。その結果,一時期これらの運動は下火となった。しかし新たな産業発展は,なんの保護もない労働者の犠牲のうえに成り立っており,パリなど大都市の無秩序な膨張ともあいまってさまざまな社会問題が深刻化した。多くの社会調査が,悲惨な工場労働者の実態を告発し,1841年の立法でやっと8歳未満の児童労働が禁止されたような有様だった。王政下の産業発展は,その財政政策と同じく金融貴族の利益にもとづいたものであったため,しわよせを受けたのは労働老・農民ばかりでなく,中小商工業者でもあった。1845年の凶作以降,経済危機が重大になるなかで,多様な社会層をまきこんだ王政反対の政治運動が結晶してくる。普通選挙の要求と社会立法による社会問題の解決という主張が人心をとらえ,王政がもっぱら弾圧の姿勢で臨むとき,両者のあいだには修復不可能な亀裂が走り,やがて,1848年2月,新たな革命となって王政はくずれさるのである。