●下地中分 したじちゅうぶん
アジア 日本 AD
1185年(文治1)守護とともに地頭が諸国に補任され,二つの領主権・下地進止権が併存することとなった結果,地頭の領家方収納分の抑留,地頭得分の拡大などによる庄園の所務,下地に関する領家・地頭間の相論が頻発することとなった。下地中分とは狭義には,その解決のために,それぞれ一円領有を認め合い,相互の妨げを排除するために下地を,領家・地頭に二分することを意味するが,広義には,下地の地頭相互間などの分割を含めることもある。下地とは年貢,所当の対象となるすべての田畑・山林原野から海にいたるまでの土地・空間そのものをさし,下地から上がる収益をさす上分に対する語である。中分とは,相分・折半などの語で呼ばれることもあり,二分することである。分割の比は最も多い均分の他,領家三分の二,地頭三分の一の1303年(乾元2)の東寺領伊予国弓削島庄,領家五分の二,地頭五分の三の1323年(元享3)の備前国金岡東庄の例など,在地の政治情勢によって異なった。中分の法は当時の社会通念となっていた一般所領の折半の考え方を頻発する領家・地頭間の相論解決に適用したものであった。その方法には和与中分と領家側の中分訴申にもとづく幕府の裁許による場合とがあった。前者は領家側と地頭側との譲歩にもとづく契約で,和与とは法律用語の示談に当たり,和与が成立すると和与状が作成され,幕府からの承認の下知状が下りて法的に有効となった。後者は貞永式目成立以降に例が開かれ,当初は承久の乱後に補任された新補率法地頭に対してのみ適用されたが,永仁ころからは承久の乱以前の本補地頭にも適用されるように改められた。これは新補率法地頭が下地についての進止権をもたなかったために,領家側の中分訴申が地頭側の不利を招くことはないという幕府の判断によったものであり,永仁以降の適用範囲の拡大は両者間に差異がなくなったことによると解釈されている。この場合は領家側の中分訴申が幕府に認められ裁許状が下りれば,地頭側の意志を聞く必要はなく,領家側の応諾のみで下地中分が成立した。このような変化は,幕府の対処の仕方が,初期の地頭権保護の考えから訴訟の速急終結へ改められたことを示すものである。中分の様式には境界線を定めて地域的に惣荘を分つ分直中分と,1坪あるいは一つの単位のなかをそれぞれ地頭分・領家分とに分つ坪分け中分とがある。一般には年貢収取の関係においてのみ地頭の接触を断ち一円進止とする坪分け中分が古く,鎌倉中期以降,分直中分が多くなる。また,当初坪分け中分が行われたが永久的解決にいたらず,分直中分にやり直しが行われた庄園も多い。たとえば,京都三聖寺領豊後国大野庄志賀村南方では1292年(正応5)坪分け中分が行われたが相論が再燃し,1314年(正和3)分直中分が行われた。下地中分の史料上の初見は1239年(嘉禎3)鹿島社領常陸国大枝卿の和与中分であり,鎌倉中期以降しだいに多くみられるようになる。領家側は当初地頭の対捍に対処するために豊凶にかかわらず定額の年貢を受け取ることを条件に,年貢の徴収管理を地頭に委ねる地頭請所で対応してきた。東寺も年貢対捍に対して丹波国大山庄を地頭請所としたが,再び地頭中沢氏によって年貢対捍が行われたために雑掌が訴申し,下地中分の下知状が1294年(永仁2)に下されている。このように最終的には下地の一円的支配である分直中分に求めざるを得なくなったことは,在地における,地頭・預所などの在地領主の成長を示すものであり,この中分がさらに領主の封建化を促進させることになり,庄国崩壊の一因ともなったと考えられている。下地中分を具体的に示すものとしては,1259年(正嘉2)の京都松尾社領伯耆国東郷庄和与中分図が有名であり,それぞれ現地比定がなされているが,現在の大字境などに残る当時の中分線にその現在的意義を見ることができる。
〔参考文献〕安田元久「下地中分論」『地頭及び地頭領主制の研究』
平山行三『和与の研究』