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●氏族社会 しぞくしゃかい

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 モルガンやマルクスなどの見解に従えば,原始社会の終わりの段階において,まだ階級社会が顕著に現れない氏族社会が出現するという。この時代にあって,社会結合の根幹は,血縁的な紐帯で,同一氏族の集団であった。これらの氏族がさらにいくつか集まって部族をつくる。そしてしだいにその部族も共同して政治的な部族連合を形成するという。氏族社会においては,それをまとめる長は存在するとしても,彼らの全体の行動決定は,構成員が参加する会議で決定され,すべて自分勝手の行動は許されなかった。彼らは,共有の土地を耕作し共同財産を管理してその収穫物は年齢・性別などによって平等に分配された。個人の保有は,日常に用いる身の回り品に限られていた。だが,しだいに生産力も高まり,あるいは部族連合間の対立から他の部族連合を支配しはじめるようになると,共同体内において権力者が形成され,分配制度の不平等も生まれ,私有制が顕在化してくる。そうして族長や豪族層も出現し,階級社会が生まれてくるというのである。

 これを日本の古代国家形成の時点にあわせてみると,一体どういうことになるのであろうか。さしずめ,古墳の造営に象徴される時期と照応するであろう。つまり,それ以前の弥生時代こそ氏族社会であるということになる。事実,静岡県の登呂遺跡などは,氏族社会の共同生産のサンプルを示すものといわれている。登呂遺跡の北部の微高地には10カ所ばかりの竪穴住居と高床式の倉庫2カ所が設けられ,その南には,板で畔や溝が区切られた水田が広がっている。おそらくこれらの住居に居住する人達は,強い共同体的規制で結ばれ,共同所有地である水田を耕作し,その収穫物は共同倉庫に収納され,共同体の祭りのあと構成員に応じて平等に分配されていたと考えられている。だがそのように想定されたとしても,果たして登呂の住居が,モルガンやマルクスが考えていたような完全な氏族社会であったかどうかは実証することは困難であろう。もちろん,日本においては,血縁集団が共同して土地の耕作に従事することはかなり後の時代までみられる。たとえば奈良時代の籍帳数からみても,郷戸・房戸(ごうこ・ぼうこ)のまとまりは,親族を核としているから律令時代も氏族社会であったといえないこともない。とするならば,いわゆる階級社会以前に氏族社会が出現するということも,検討を要する。これとは別に日本の古代にあっては,「氏姓」とは特殊な用語として使用されていることに注意したい。たとえば中臣連鎌足と名のる場合,中臣が氏(うじ)であり連(むらじ)が姓(かばね),鎌足が名である。このように氏とかそれの職掌や身分を示す氏や姓が,身分秩序の基本的原理をなしていた時代を一般に氏姓制の時代と称している。『允恭記』には,〈天皇・天の下の氏々名々の人等の氏姓の忤い過てるを愁いたまいて,味白梼(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前に,玖訶瓮(くかべ)を居えて,天の下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき〉とあり,盟神探湯(くかたち)をさせて氏姓の混乱を正し,氏族制度を整えたといっている。『新撰姓氏録』の序文にはそれをうけて時代を経るに従い,国記数も燔け,幼弱はその根源に迷い,狭強なる者はその偽説を倍にするようになったという。しかるに天智天皇が儲宮のとき,船史恵尺(ふなのふひとえさか)が燼書を奉進し,庚午の年に戸籍を編造したときより人々の氏族が定まったといっている。だが勝宝年中に,諸蕃が賜姓を願ってくるようになると,和俗の別も不明瞭となったので万多親王らは,平安の初め『新撰姓氏録』をまとめ,氏姓の出身を明らかにした。『新撰姓氏録』には1,182氏を収め,五畿内の氏族を皇別・神別・蕃別の三種に分けている。天皇を頂点とする身分秩序の確定という点にその意義を見出すべきであろう。氏族には,氏上(うじのかみ)を中心として一族の統制がとられたことは想像に難くないが,氏上の史料初見は,『天智紀』3年条である。〈其の大氏の氏上には,大刀を賜う。小氏の氏上には,小刀を賜う。其の伴造(とものみやつこ)らの氏上には干楯・弓矢を賜う。亦其の民部・家部(かきべ・やかべ)を定む〉とある。この大氏,小氏に氏上を置くというのは,『続日本紀』大宝2年条に〈甲子の年(天智3),氏上を定める時,載せざる所の氏,今,姓を賜わる者,伊美吉より以上〉とあり,伊美吉(忌寸)以上の氏であったらしいことがうかがわれる。この忌寸は天武十三条の八色の姓(やくさのかばね)の四等の姓で,眞人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置の順である。それについで守山公ら13氏に眞人の姓を,大三輪君以下52氏に朝臣を,また大伴連ら50氏に宿祢を賜姓している。そして大倭連ら11氏に忌寸の姓を与えているので,以上116氏以上が氏上が置かれたことになる。これより以前,『天武紀』11年条には〈諸氏の人等,各氏上に可き者を定めて申し送れ。亦其の眷族多に在らむ者をば,分けて各氏上を定めよ。並びに官司に申せ。然る後に状を斟酌りて処分之。困りて官判を承けよ。唯し小き故に困りて,己が族に非ざらむ者をば,轍く附くること莫れ〉とあり,氏が細分化されていく姿をうかがうことができる。氏上を定める宮司は,当時は理官で,のちには治部省であった。

 一方,族は「ウカラ」と訓むが「カラ」は腹カラ・家カラ・トモガラのカラで血縁的関係を示す語である。ウは「生」であろう。『神代紀』には,族を「宇我羅」とよませている。ただ古代の籍帳などをみると,国造族・粟栖田君族・県主族などと一般姓のあとに族を付して呼ばれる人たちが登場する。これらはすべて中小豪族の下部組織であり,一般の部民よりは一ランク上の身分とされていたらしい。姓を称する中小豪族層とは,一応血縁関係は認められたとしても,その氏族集団の周辺部に位置づけられる者たちであったろう。

 これらの氏族は,氏族限りに奉斎する神,氏神を祭っていた。だが「氏神」の初見は,意外に遅く『万葉集』巻3の大伴坂上郎女が,733年(天平5)に〈大伴の氏の神を供祭する時〉と左註するのを初めとする。『正倉院文書』の772年(宝亀3)の美努石成(みぬのいわなり)の請暇解にも,〈私の氏神を奉す可きに依り暇を請ふ〉とみえ,美努氏のような,小氏にも氏神の奉斎が見られたことは注目されてよい。この氏神は忌部氏(いんべし)が太王命(ふとだまのみこと)を,中臣氏が天児屋根命(あまのこやねのみこと)を祭るように,祖神を奉斎する場合が少なくないが,『続日本紀』宝亀8年条に〈内大臣藤原朝臣良継病す。其の氏神鹿島社正三位,香取社正四位上に叙す〉とあるように,必ずしも祖神とは限らなかったようである。氏上(氏長)は,これら氏神の祭りを主催し一族を統属していた。氏上の統制に服さない氏人は放氏されることもあった。氏上は,一族の長老が順におされて任ぜられ,特定の家で独占されることはなかった。ただ権力が集中してくると,早くも蘇我氏の馬子−蝦夷−入鹿のように直系で大臣を独占し,宗家的地位を確立しようとした特殊なケースも見られるが,一族内部の抗争を引きおこし,一族の境部摩理勢(さかいべのまりせ)や蘇我倉山田麻呂などを敵にまわす結果となり,結局は滅びることとなった。藤原氏も外戚として権勢をふるうこととなったが,不比等は自分の子4人をそれぞれ南家・北家・式家・京家に独立させたのは,蘇我氏の轍を踏まぬための処置であったと思われる。

〔参考文献〕直木孝次郎『日本古代国家の構造』1958,青木書店