●士族 しぞく
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明治維新後に,旧幕時代の幕臣・宮家家士・神官・寺院家士・各藩士に与えられた身分的族称で,華族・平民とともに日本臣民の族称の一つである。1868年(明治1)朝廷に帰属した旧幕臣のうち,元高家・元交代寄合以下100石以上を中太夫・下太夫・上士の三階級に分けたが,翌1869年(明治2),版籍奉還とともに明治政府は複雑な諸身分の整理に積極的に取り組み,旧公卿・諸侯を華族と定め,ついで旧武士階級とその家族,さらには一門以下平士にいたるまですベてを士族と称すべきこととした。また同年末には,中太夫・下太夫以下の称を廃して,士族および卒族の二階級に分け,旧足軽・旧同心を卒族に入れ士族と区別をした。そして,1872年(明治5)には,卒族のなかで,事実上世襲の姿だった者は士族に,新規一代限りの者は平民に復籍させて卒族を廃した。封建時代四民最高階級として,農・工・商の上に優越を誇った武士階級に対し,華族についで一般民(平民)以上の身分であることを示す称号を与え,封建制度の廃止に伴う彼らの身分喪失・家禄減少の不平緩和をはかったわけであり,ここに士族身分は確定した。1873年(明治6)1月における士族数は,40万8823戸,189万2449人にのぼっている。しかしながら,武備にあたる特権をもち,また家禄を有していた当時の士族にとり,1873年(明治6)1月の徴兵令の施行は,彼らの常識を奪い,生活困窮を強いられる結果となり,また1876年(明治9)の帯刀禁止令(廃刀令)は,帯刀の特権を失わせ,さらに,同年8月には,強制的に家禄の奉還を命ぜられ,同時に金禄公債が交付されたにもかかわらず,彼らの多くは慣れない商工業に着手し,たちまちこの公債をも失い,失業の憂き目にさらされざるをえなかった。こうした士族の状況に対し,その救済が社会問題となり,明治政府は帰農の奨励・開墾・移住の奨励・産業貸付金などのいわゆる「士族授産」を行ったのである。すでに政府は,1870年(明治3)帰農商を出願する士族に一時賜金を下賜したが,ついで1873年(明治6)12月,禄高100石未満の者に家禄の奉還を許して,永世禄は6カ年分,終身禄は4カ年分を現金および公債証書で交付したが,このときは官林荒蕪地払下規則を公布し,還禄資金の受領者のなかで,希望者には,時価の半額をもって払い下げたのである。このような政策は,1876年(明治9)金禄者への家禄支給をとどめ,その代償として公債証書を交付して以後,いっそう強力に推し進められた。また,1878年(明治11)5月の起業公債発行条例は,各府県における士族数の多少に応じて,府・県に貸与すべき金額の割当高を定め,その範囲内において,士族の結社・団体などに対して貸与を行ったものであり,士族はこれをもって,養蚕・製茶・機織などの事業をおこした。以上のような政策とともに,政府が最も力を注いだのは開墾である。開墾は内地と北海道で行われたが,北海道では,開拓使の設置と同時に拓殖と北辺防備の目的をもって各藩士族を移住させ,その数は1万4000人にのぼった。さらに1874年(明治7)屯田兵制度を設け,士族を移住させて土地・家屋・農具を与え,開拓にあたらせ,非常のときの兵備を供した。内地における開墾地では,福島県安積郡対面原・福島県大槻原・宮城県牡鹿原・三重県明野ヶ原・栃木県那須原などがあった。こうした授産政策は1889年(明治22)まで続けられ,産業資金の賃付は530万円,その数は数万人であった。しかし,成功者はわずかであり,開墾した者も多くは土地を転売・転業し,商工業に従事した者にいたっては,ほとんどがいわゆる“士族の商法”で失敗に終わった。この失敗は,士族の不満を海外に転じさせようとした征韓論や萩の乱・秋月の乱・西南戦争といった不平士族の反乱の原因となり,さらに自由民権運動のなかにも具現化されていった。士族中には,政財界・官学界の指導者として,その地位を維持しようとする者もあったが,士族の称は,近代社会の進展とともに有名無実化した。〔参考文献〕福地重孝『士族と士族意織』春秋社
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