●自然神学 しぜんしんがく
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イエス=キリストにおける神の啓示以外に,人間が生来もっている理性によっても神の啓示を見ようとする,キリスト教神学の立場をさす。イエス=キリストの啓示のみをもって立てられた,神についての教説を,啓示神学と呼んでいる。したがって,自然神学は啓示神学と対になった用語として使われており,両者の関係については多くの議論がくりかえされた。この関係で,神が自身の心中を人間に明らかにする,啓示についても同様の区別がなされ,関係づけが論ぜられている。すなわち,神がキリストを通してのみ,排他的に啓示のわざをしたことを主張する立場(特殊的啓示)と,キリスト以外の媒介を通して,神はその御心を示すとの立場(一般的啓示)とが立てられる。後者の場合に,啓示の媒介として認められてきたのは,自然・歴史・良心である。自然神学は,神の啓示がキリスト以外のところで認められるとするのであるから,そこでは必ずしも信仰を前提としなくとも,人間にそなえさせた理性の働きを通して啓示の認識が可能となる。自然神学の典型的な考え方を示したのは,トマス=アクィナスである。〈恩寵(恩恵)は自然を破壊せず,これを成就する〉と主張する彼のことばには,自然神学の立場が明白に示される。トマスは神に関する真理が,哲学によって厳密に論証されることを確信していた。もちろん,神による啓示なしに人間の救いも,救いに必要な知識もあり得ないことは,トマスの場合も明らかである。しかし,理性によって人間は神の本質そのものを知ることは不可能ではあっても,神が万物の第一原因として存在していること,また神がその被造物である万物とは異なることはできる。それ以上のことは,啓示によらねば知り得ないとしても,なおそれへの導入ないしは前段階として,自然的理性の認識にもとづく活動分野が与えられている。トマスに見られる自然神学は,後世の類似の洞察に多くの影響を与えているといえる。
自然神学はこのように,つねに啓示神学との関係のなかで取り上げられている点は,あらためて注目すべき事柄である。換言すれば,自然神学のみが啓示神学から分離している形で主張されることは,神学自体の存在を危うくしかねないのである。したがって,啓示についていえば,上述の特殊的な啓示,キリストによる啓示が,あくまでも第一義的である。そして第二義的な意味における一般的啓示,自然・歴史・良心を媒介とする啓示がおかれている。この関係について,とりわけ20世紀のキリスト教神学では,ほぼ基本的な一致が見られる。ただし,一般的啓示ないしは自然神学の範囲が,どこまで認められるべきかに関しては,多くの議論があり,かんたんに一致し得ない状況が継続している。
この点に関して,プロテスタント神学における例として,自然神学論争をあげてみたい。これは1930年代半ばに,バルトとブルンナーとのあいだに行われた論争をいう。またこの論争には,弁証法神学の運動を展開していた両者に存在した,神学方法論上の相違も背景にある。ブルンナーは,神に創造された人間には堕罪の後も神のかたちの実質が残されており,キリスト教の宣教活動には,こうした結合点が用いられて然るべきである,と主張した,(『自然と恩寵』1934)。ブルンナーの論旨は,神に対する人間の応答する能力あるいは責任を重視するものであり,その意味において自然神学は,正しい意味において保持されなければならないとする内容であった。これに対して,バルトは強く拒否の態度を示し,自然神学,一般的啓示を全面的に否定したのである(『否!エミール=フルンナーヘの答え』1934年)。かくしてバルト白身は,あくまでもキリストにおける神の啓示を中心にした,神学の展開をめざすこととなった。
自然神学論争の例が示すように,一般的啓示や自然神学の範囲に関する立場には,さまざまなものがあり,とくに諸宗教の理解は新しい課題となっている。