●獅子舞 ししまい
アジア 日本 AD
獅子の頭(かしら)をかむって舞踊する芸能。獅子頭に幌(胴幕)を付け,そのなかに二人以上の人間が入って舞う二人立の獅子と,頭に小型の獅子頭を戴き,胸に太鼓や羯鼓(かっこ)を付けて踊る一人立のものがある。【二人立獅子舞】獅子は百獣の王とされる西域の動物で,奈良時代以前に渡来した〈伎楽(ぎがく)〉や〈散楽(さんがく)〉とともにわが国に伝来した。伎楽の獅子は〈師子〉と記され,師子子(ししご)と呼ぶ二人の童子に曳かれて行道するものであったらしいが,実際には伝承されず,頭や師子子の仮面のみが正倉院などに残る。しかしその面影は舞楽に伝わり,大阪四天王寺聖霊会(しょうりょうえ,4月22日)・島根県隠岐島国分寺蓮華会(4月21日)の舞楽に残る。この獅子舞は独立して祭礼行列に供奉した。その異国風な風貌が,悪霊を払うと考えられたのである。祇園御霊会を初め,平安時代の大社の祭礼に姿がみえるが,この系統では童子は付かず,締太鼓打二人が噺子を受持ち,田楽,王の舞,細男(せいのお)などとセットになっている場合が多い。「年中行事絵巻」などにその姿が描かれる。今日祭礼行列に供奉する獅子舞は,この系統である。
【太神楽の獅子舞】悪魔や悪霊を払うという獅子頭に対する信仰を布教に利用したのは,伊勢神宮の下級御師(おし)たちであった。獅子頭を神座として皇太神を勧請。これを全国に持ち歩いて家々の門口で舞わし,竃払いや家祈祷をして米銭と引換えに御礼を配布するのである。村の各戸を回り終わると,適宜な場所で人を集めて正式な獅子舞をみせ,余興として曲芸も演じた。江戸時代中期以降は,農村部の若者組が主体となり,毎年来る太神楽からその芸を習得,自分たちが娯楽を兼ねて村の祭礼に獅子舞を演じるようになった。今日,民俗芸能として残る二人立系獅子舞の多くは,この流れである。この獅子を女形にして,江戸後期に農村部まで浸透した浄瑠璃に合わせて芝居をしたのが,現在愛知県,山梨県など中仙道沿いの村々に残る“嫁獅子”である。太神楽の曲芸的要素を発展させ,2段継・3段継の曲芸獅子など,若者組が工夫を凝らした獅子舞も多い。京都の六斎(ろくさい)念仏では,太神楽の曲獅子と,壬生狂言の土蜘蛛の曲が組合わされている。なお近年まで正月などに門付をして歩いた獅子舞は,太神楽の獅子舞が崩れたものである。
【権現舞】獅子頭が神座とされたことより,東北地方ではそれを権現(ごんげん)の名でも呼ぶ。陸奥の早池峰(はやちね)山,里森山,出羽の鳥海山などを中心とした東北の修験者たちは,この権現様を捧じて農閑期の村々を回った。伊勢の太神楽と同様,悪魔払いや竃払いに獅子頭を回すのであるが,その後に民家の一室を舞台に演じられる余興が,こちらは古い形式の猿楽能で,仮面をつけた神々や道化が登場して舞った。山伏神楽とか番楽などこの能を中心に呼ぶ名称が著名であるが,信仰的には権現舞と呼ばれていた。獅子舞と同義である。
【一人立獅子舞】頭に獅子頭を載せ,腹に太鼓を付ける獅子の芸態は,舞よりも踊である。長野県以東では,3匹の獅子が4人のササラ摺に囲まれ,風流(ふりゅう)歌に合わせて踊る“三匹獅子舞”が民俗芸能として広く分布する。関東平野から福島県にかけてが最も盛んで,1匹の雌獅子を中心に,2匹の雄がさまざまにからむ。これが宮城・岩手の両県では8匹からそれ以上となり,鹿踊と呼ばれる。これは二人立獅子舞とは本質的に異なるもので,室町期から近世初期にかけて流行した風流踊の,太鼓を付けた仮装の者が独立発展したものである。四周に立つささら摺は,側(かわ)踊の残存である。この獅子踊で歌われる歌が,近畿地方の風流歌に共通するのはそのためで,近世初期に関東地方で工夫されたと思われる。越後蒲原郡月潟村を本拠とした“角兵衛獅子”は,この獅子舞が江戸時代中期に,大道芸化したものである。
〔参考文献〕「獅子舞特集」民俗芸術3−1
本田安次『語り物・風流一』1967,木耳社
本田安次『延年』1969,木耳社
![]()