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●四国 しこく

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 北部は瀬戸内海,南部は太平洋,東部は紀伊水道,西部は豊後水道に面し,面積は1万8,792平方kmで,日本全国の5%をしめる。『古事記』によると,四国は「伊予之二名島」といわれ,「面四つ有り」と記されるが,讃岐国の飯依比古と伊予国の愛比賣,土佐国の建依別と阿波国の大宜都比賣の男女2神ずつが一対として表わされている。これは讃岐,伊予の北四国と土佐,阿波の南四国を表現したもので,讃岐は香川県,伊予は愛媛県,土佐は高知県,阿波は徳島県である。国造時代をへて国郡の制が定まり,8世紀になって駅制が整備されてからは,京都と四国の国府を結ぶ官道の往来がはげしくなった。国の格付は土佐が中国で他の3国は上国。『続日本紀』養老3年(719)7月13日条に,伊予国守高安王が阿波,讃岐,土佐3国を管したことがみえる。国守では『土佐日記』を著した土佐守紀貫之が有名。724年(神亀1)土佐は遠流の国となる。北四国は降雨量が少なく南四国は多く対照的。とくに讃岐は干害が多く,ため池が発達したが,空海の修築した万濃池は名高い。平安中期には伊予の日振島を根拠とした藤原純友が反乱をおこした。流人として紀夏井,藤原卿長,源希義が土佐に,崇徳上皇が讃岐に配流さる。鎌倉時代には土御門上皇が土佐,のち阿波へ,尊良親王が土佐,宗長親王が讃岐に流さる。平安末期源平の戦がおこり,四国の豪族は自己の判断で両氏のいずれかに属して戦ったが,讃岐屋島の戦で平家は敗走し,壇の浦の合戦で滅亡。四国各地に落人伝説が生まれる。鎌倉時代には阿波では佐々木氏,小笠原氏が,讃岐では佐々木氏,近藤氏らが,伊予では越智氏のあとの河野氏,佐々木氏が,土佐では梶原,佐々木,豊島,三浦氏らがそれぞれ守護として国内を支配した。南北朝から室町時代には阿波,讃岐,土佐は細川氏の守護領国となり,伊予では東部へ一時細川氏の勢力が浸透したが,河野氏が守護として国内の治安を保った。戦国時代には細川氏にかわって在地豪族が勢力を伸張した。阿波では三好・松永氏が,讃岐では香川・香西・十河らの各氏が,伊予では河野・宇都宮・西園寺の各氏が,土佐では安芸・香宗我部・長宗我部・本山・吉良・大平・津野・一条の諸氏が台頭し,それぞれ主導権を握ろうと戦ったが結局,長宗我部元親が1585年(天正13)の春,四国を統一した。だが,この年夏,豊臣秀吉の四国征伐により,元親は降伏した。その結果阿波は蜂須賀氏へ,讃岐は仙石氏ついで尾藤氏さらに生駒氏ヘ,伊予は小早川氏ヘ,土佐は長宗我部氏ヘ,それぞれ与えられた。関ヶ原の合戦後,四国は新たな藩体制が成立し,国内の支配が行われることとなるが,阿波は蜂須賀氏が藩主となり17万石のほか,蜂須賀至鎮大坂の陣で,徳川家康に従い淡路国を与えられた。石高25万7,000石をもって徳島藩主は廃藩置県にいたった。讃岐は,高松藩には生駒氏が在封したが,1642年(寛永19)松平頼重が入封し,12万石を継承して廃藩置県にいたり,丸亀藩は山崎氏,ついで京極高和が1658年(万治1)入封,石高6万石,のち高通に多度津1万石を分封,以後廃藩置県にいたる。伊予は小早川氏のあと,福島・加藤氏をへて,江戸時代には藩の分立が多かった。松山藩は加藤・蒲生氏をへて1635年(寛永12)松平定行が15万石で入封,大洲藩は脇坂氏のあと1617年(元和3)加藤貞泰が入封,6万石だが,1623年1万石を分与して新谷藩が成立。宇和島藩は藤堂・富田氏をへて1614年(慶長19)伊達秀宗が入封,1657年(明暦3)3万石を分与して吉田藩が成立,合わせて10万石。今治藩は藤堂氏ののち,1635年(寛永12)松平定房が3万石で入封した。西条藩は1636年(寛永13)一柳直盛入封,1670年(寛文10)松平頼純入封,3万石。小松藩は1636年(寛永13)一柳直頼1万石で藩主となる。伊予は以上8藩が分立し,廃藩置県にいたる。土佐は長宗我部氏のあと1601年(慶長6)山内一豊が20万石余で入国,幕末には新田開発で49万石となる。山内氏の子孫が相ついで廃藩置県にいたる。四国の名産として阿波の藍(あい),讃岐の塩・砂糖,伊予の絣・和紙,土佐のサンゴ・鰹節・和紙などは有名。近代以後,時代の変化で衰退したものもあるが,伊予ミカンなどは盛んに栽培されている。

〔参考文献〕山本大『四国の風土と歴史』1977,山川出版社