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●始皇帝 しこうてい

アジア 中華人民共和国 AD259 魏・呉・蜀

 前259〜前210(在位前247〜前210年)中国,秦の第31代の君主で,中国の国内統一をした最初の皇帝。秦の荘襄王子楚と呼ばれ,趙に人質であったとき,趙の都,邯鄲で生まれた。母は当時大商人であった呂木韋の愛妾で,すでに妊娠していたのを,子楚の願いを入れて譲ったのち生まれたのが,政(のちの始皇帝)ということから,呂不韋が実の父であったといわれている。子楚は秦に帰国したのち,秦の王位についたが,在位3年で死亡し,前246年(始皇帝1)13歳の秦王政が即位し,呂木韋が相国として国政を補佐した。即位後,9年後には,母太后と密通したロウ※注1※毒を誅殺し,連座した呂木韋を翌年には辞職させて,自ら政務をみた。戦国時代末期にあたり,諸国が抗争を繰り返すなかで,前230年(始皇帝17)まず韓を征服し,ついで,趙・魏・楚・燕を併合し,最後に斉を滅ぼして,前221年(始皇帝26)全国統一を達成した。奏王政は,全国統一を完成した偉業を誇って,これまでの王号を廃し,万物を主宰する宇宙神である上帝に同一化する意図で,皇帝を称し,諡法を採用しないで,始皇帝より,2世,3世に継承されるものとし,また,自称を朕とし,命令を制,法令を詔と称することに定めた。ついで,全国の兵器および富豪を咸陽に集めて,争乱の原因をとり除き,地方は36郡に分け,郡のもとに県を置き,それぞれに中央から官僚を派遣して支配し,中央には,丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)の3権を分立させて統轄する中央集権の政治体制を整えた。国内政策では,度量衡や車の幅を統一し,文字は小篆で統一し,貨幣も半両銭を制定した。対外政策としては,前214年(始皇帝33)から,将軍蒙恬に数十万人の兵を率いさせて北方へ派遣し,オルドス地方(北方の黄河南岸)から匈奴を撃退して,万里の長城を築かせた。長城は,すでに戦国時代に,趙や燕が築いていた部分も利用しながら,西はリントウ※注2※(現在の甘粛省岷県)から,黄河に沿い,北の陰山山脈に並行させて,東は遼東のジョウヘイ※注3※(現在の遼寧省遼陽付近)におよぶ大規模なものであった。また,南方にも征服の軍をすすめた。このときは,逃亡の罪を犯した者や,入壻(いりむこ)の者や商人たちを集めて軍をおこし,華南地方を征服して,桂林(現在の広西僮族自治区),南海(現在の広東省番禺県),象(現在のヴェトナム社会主義共和国のハノイ)の3郡を置き,流罪者を送って守備させた。一方,咸陽では,皇帝の居所にふさわしい広大な阿房宮の造営を行い,驪山のふもとに自分の陵墓の建設を行った。いずれも,始皇帝時代には完成せず,第2世皇帝時代にも続けられた。始皇帝は,全国を巡幸するために,馳道(ちどう)を造らせ,「ケッセキ※注4※石」(現在の河北省昌黎県)・之罘(しふ)(現在の山東省福山県)・泰山(現在の山東省泰安県北)・「エキザン※注5※」(現在の山東省鄒県)・琅邪山(現在の義東省諸城県東南)に登り,それぞれ刻石を建てて秦の功績を記した。また,巡幸は,雲夢(現在の湖北省安陸県)・九疑山(現在の湖南省寧遠県南)・会稽山(現在の浙江省紹興県東南)にも及んだ。晩年には,東方巡幸で影響を受けた方術の士を信任して,神仙思想を信じ,不死の薬を探させた。しかし,彼は,政策の批判を許さず,秦の記録,医薬・卜差(ぼくぜい)など,思想に関係しない書以外は焼きすてさせ,批判した学者など460余人を坑(あな)に埋めて殺した(焚書坑儒)。前210年(始皇帝37),江南の会稽山などへの巡幸の帰途,「平原津(ヘいげんしん)」(現在の山東省)で発病し,沙丘(河北省平郷県東北)で没した。このとき,随行していた宦官の趙高と丞相の李斯は,始皇帝の死を秘して,皇帝の長子の扶蘇を自殺に追いこみ,やはり随行していた末子の胡亥をたてて,第2世皇帝とした。

〔参考文献〕岩波講座『世界歴史』4,西嶋定生「皇帝支配の成立」1970,岩波書店

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