●紫禁城 しきんじょう
アジア 中華人民共和国 AD
明・清両代の宮城の名称であり,紫禁とは禁中の呼び方で帝居をたとえて「紫薇垣」というところによる。明初,洪武帝が南京に都を定め宮城を造営したことに始まる。永楽帝が即位すると北平を北京に改め,燕王府をもとに宮城を修建した。北京の紫禁城は現存し,中華民国以後は一般に故宮とも呼ばれている。南京の紫禁城は北京とほぼ同様の規模をもっていたとされるが,北京に帝展が移ったために損壊を免れず,清代には駐防八旗の居処となり太平天国時期の戦乱で破壊され,現在一部は公園となっている。【建置】北京の紫禁城は1406年(永楽4)に建築が始められ,1420年(永楽18)に完成した。その後,数多の修建・増築があり,明末1644年(崇禎17)の李自成の乱のさいにはほとんど全焼したが清朝は原基によって復旧させたので明初の宮殿配置は保存されている。紫禁城は北京の中心に位置し,官庁・王府街であった皇城の中央を占めている。その規模は東西750m,南北960mで,高さ十数mの城壁に囲まれ,その外側には幅52mの護城河(濛)がめぐらされている。面積は72万平方mで,うち建築面積は約15万平方m,そのなかに柱間にして9,000余の建物が存在する。その多くは木造建築で紅い壁,黄釉瓦をいただき青白石の基壇の上にたち,中国で現存する最大かつ最も完整した古建築群といえる。周囲の城壁には四つの門があり,南正面には午門,北には神武門,東に東華門,西に西華門が位置する。午門は紫禁城の正門で,トン※注1※台の上に5つの楼閣を設けたことから五鳳楼とも呼ばれた。毎年10月朔日の時憲書(暦)の頒布や戦勝の儀式が午門で行われた。この午門と神武門を結ぶ線が紫禁城の中心軸であり,宮殿建築はこの線を中心として左右対照に分布し,主要な建築はこの線上に位置する。つまり,午門から北へ金水橋,太和門をへていわゆる外朝の三大殿があり,さらに乾清門をへて内廷の後三宮,御花園,欽安殿から神武門へといたるのである。紫禁城の建築は乾清門を境にして“外朝”と“内廷”の2大部分にわけることができる。
【外朝】外朝とは太和,中和,保和の三大殿を中心に文華,武芸の2殿を両翼に配した区域で,皇帝が大典を挙行したり百官の朝賀を受ける公的な部分といえる。太和殿は俗に“金鑾殿(きんらんでん)”といわれ紫禁城最高最大の建築で皇帝権力を象徴した宮殿である。明代では奉天殿のち嘉靖年間に皇極殿と改称された。太和殿では毎年元旦,冬至,万寿(皇帝の生日)に式典が挙行されたほか,皇帝の即位,大婚や皇后の冊立,将軍の出征,進士黄榜の発布などの重要な慶事,事件には儀式が挙行された。殿前の広場には灰色のセン※注2※が敷き詰められ式典のときには品級山という標示が置かれ百官は位階によって整列した。中和殿(明代では華蓋殿,中極殿)は方型の小殿で式典用の器物をおさめ,種々の典礼の挙行にさきだち皇帝は中和殿に出御し重臣の朝拝を得たあと太和殿へとすすむ。保和殿(明代では謹身殿,建極殿)は清代には毎年大晦日に王公貴族文武大臣を招いた「慶功宴」を行った場で,乾隆後期以後は殿試も太和殿から保和殿で催されるように改められた。文華殿では春秋の御進講が行われ,その北側の文淵閣は『四庫全書』を収蔵したところである。武英殿は康煕年間(1662〜1722)に『佩文韻府』や『古今図書集成』の編集が行われ,乾隆年間(1736〜95)にはいわゆる「殿本」の刊行が行われたことで知られる。
【内廷】内廷は乾清宮,交泰殿,坤寧宮の後三宮(乾清三宮)を中心にして東西六宮や北五所,御花園,奉先殿などからなる一画で,皇帝の日常の政務の処理や后妃・皇子の居住,遊園や祭儀のための私的な部分である。乾清門は清代皇帝が各大臣の奏上を受ける「御門聴政」の場であった。乾清門の東西には皇子の読書の所である上書房と翰林官の侍班の場であった南書房があった。乾清宮は内廷の王宮であり明代から清代前半まで皇帝の寝宮だったが,雍正帝が養心殿に寝宮を移して乾清宮は内廷の儀典や官員の引見に用いられるようになった。また,皇帝の死後柩を安置する「停霊」の場でもあった。宝座の上の順治帝の筆とされる「正大光明」の額はいわゆる太子密建のところとして知られる。交泰殿は皇帝の御璽を保管するところで,嘉靖年間(1522〜66)の創建で初め省躬殿と名づけられたが,のち交泰と改められた。坤寧宮は明代には皇后の寝宮であったが,清代に入り満州族の祭事に利用されるようになった。その東暖閣(東の間)には皇帝が新婚の夜を過ごした「洞房」がそのまま残されている。乾清三宮の両側の東,西六宮は妃嬪の居住した場所であり,儲秀宮は清末に西太后が50歳まで住んだところである。西六宮の南が養心殿であり,雍正以後の各帝が起居し日常の政務をとったところである。ここは軍機処に近く皇帝はいつでも軍機大臣を召見させることができた。有名な三希堂はこの一画にある。東六宮の南側には皇帝の祖廟である奉先殿や斎宮がある。東西六宮の奥には各5組の宮(皇子の居所)の東西五所があった。東西六宮の外側は外東路・外西路と呼ばれ,寧寿宮や寿康宮,寿安宮,慈寧宮などの諸官は,皇帝の死後残された后妃の居住したところである。なかでも,外東路の寧寿宮は康煕帝が母后のために新宮を建て,さらに乾隆帝が隠居所として造営を行った宮殿で,そのなかの楽寿堂はかつて西太后も移り住んだところとして知られる。現在,紫禁城は一般に開放されて故宮博物院として文物の展観を行っている。
〔参考文献〕単士元『故宮史話』1978,中華書局
謝敏聡『明清北京的城垣与宮闕之研究』1980,台湾学生書局
![]()