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●史学史(日本) しがくし(にほん)

アジア 日本 AD 

【研究概観】日本の史学史の研究は,古代・中世・近世の史学史を含むものでなければならない。清原貞雄『日本史学史』(史文館書店,1928)があるが,これは徳川時代で終っている。また三浦周行の「日本史学史概説」『日本史の研究第二輯』(岩波書店,1928)も明治史学まではもちろんのこと,かなり近代までとりあつかい,川口白浦『日本国史学発達史』(健文社,1936)も明治までふれている。その後,唯物史観にもとづく伊豆公夫『日本史学史』(白揚社,1936),史学会編『本邦史学史論叢』(冨山房,1939),大久保利謙『日本近代史学史』(白揚社,1940),清原貞雄『増訂日本史学史』(中文堂,1928,のち改打1944)などがあらわされている。こうした仕事の上に小沢栄一によって本格的な仕事がなされ『近代日本史学史の研究』(吉川弘文館,1968)などで追求された。しかし,この史学史は啓蒙史学の段階にかぎられており,全面的な考察とはいいがたいものであった。

【文明史学と在野民間史学】日本史学史の二つの潮流は,日本近代史学の発展の大きな伝統を形成した。そのきっかけは,何といっても文明の摂取受容,今一つは人民−百姓一揆とのかかわり,自由民権運動をふまえたものである。もちろん文明の実学が主流を占め,日本のアカデミズム史学成立の背景を形成したものである。明治20年代にいたってドイツ歴史学が輸入され,東京帝国大学文科大学の史学科創立に,ルードウィッヒ=リースというランケ史学の信奉者が赴任した。それによって,日本文明史学がフランス史学の成果の上にたち,開化文明への自由進歩云々をといていたものから変質する。また田口卯吉のようなバックル「イギリス文明史」,ギゾー「ヨーロッパ文明史」,スペンサー=ミルの影響にもとづく『日本開化小史』(1877)のようなものがつよい影響を与えていた。わが国文明史学はフランス革命史の紹介,学制,民権論を導入した。その上に立って三宅米吉は『日本史学提要』(1886)をかいた。その中で「物」と自然,文明との関連をとき,学理性を強調し,環境の果たす役割を重視した。日本の近代史学は,万国史,泰西史,西洋文明史を中核につくられている。ランケは反ヘーゲル,史料批判重視の経験主義史家であった。そのこともあってベルンハイムが日本では尊重される。また文明史観の人に福沢諭吉もいる。さらに室田充美『大日本文明史』(1884)や藤田茂吉の『文明東漸史』のようなものがある。これらはみな西欧中心の考え方に立脚するものであった。それに対する在野民間史学は,頼山陽のごとき史論史学の伝統をうけついでいる。また伊達千広の『大勢三転考』のごとく加婆禰→都加佐→名の三変を中心とする時代変革史論の伝統をうけついでいる。百姓一揆を評価し,自由民権につなげた小室信介は『東洋民権百家伝』(1883)をかき,義民の再評価をしている。竹越三叉『新日本史』(1891〜92)は,維新史を体系的総体的に叙述したもので,「民主分子」を都市における富豪・商人,農村における名主・庄屋層に求めている。またその著『二千五百年史』のなかではヨーロッパ文明史学に学べといっている。このようにみてくると,文明史学と在野民間史学は対立するものではない。山路愛山は1892年(明治25)「近世物質的の進歩」(山路愛山選集第一巻)をかいて歴史を都市中心に描き出し,産業発達に関心をよせ,貧乏人との対抗関係の分析に力をそそいだ。しかしその後,彼は町人の独立自尊をとき,明治30年代後半には自ら帝国主義者と称し,国家による資本家の統制をとき,その横暴を防ぐことのみが国家の発展になるとといた。そして天皇こそ人権発達史の権化という。愛山は考証の価値を認識し,考証なしに史学は成立しないとといた。民友社系史家徳富蘇峰は山陽に類似した史論史学者でもあった。

【日本近代史学とアカデミズムの成立】ランケ史学の継承者,リースが史学科創設に力を尽し,久米邦武(くめくにたけ)は「太平記は史学に益なし」とて勧善懲悪史学,物語史学の克服につとめ,田口らもこれに協力し,「神道ハ祭典ノ世俗」を『史海』にのせたことも両者の結合をつよめ,偏狭な国家主義者・神道家の反発を招いた。いずれにせよ日本近代史学の一環としての国史学の成立は,史学会および史学会雑誌をつくりあげ,国史学を独立させ,1893年(明治26)9月講座制をつくり,史学科の中の一分科より1919〜20年に国史学として独立した。明治アカデミズム史学の旗手重野安繹は抹殺博士ともいわれる漢学系史家であり,頼山陽の史論史学批判にいきた。それへ対抗するものとして小中村清矩のごとき国学派の史家もいた。アカデミズム史学は史料編纂所によった。これには重野のよった修史館の伝統がいきていた。その基礎は,近代国史学のリーダー黒板勝美が,田口卯吉のすすめもあって,古文書学習につとめて古文書様式論を確立したことが大きい。また井上毅は史料編纂事業を通じて『大日本史』の方向をおさえるとともに,1883年(明治26)に重野・久米らを抑えて星野恒を中心に三上参次らを官学アカデミズムの形成に機能させた。

 しかしそれに対し日本文明史の伝統は,田口らのごとくアカデミズム史学の形成に協力するものと,明治国家の風俗政策に抗す,旧俗破壊の近代化に抗し,古社寺保存・古美術保存・文化財保存につとめるもの,また風俗史などを書いて風俗改善に力を尽し,国民合意の形成につとめる人々があらわれた。これらは内国博覧会を契機に古社寺保存・古文書古器物の発掘に努力している。徳富蘇峰の『吉田松陰』(1893)は吉田松陰を「革命家」としてえがき,第2の維新をといた。こうした風潮,人権尊重の動きは,官学アカデミズムの確立のなかで後退する。

脱亜論と外国史】ヨーロッパ史学を導入しながらも,日本は伝統的見解の打破につとめ,西欧化政策をすすめ,アジアより脱出する道を求めた。中国中華観を打破し,すでに幕末期に日本中華観を確立し,その上朝鮮蔑視から,近代化のなかで中国蔑視への動きを「文明の実学」の名でおしすすめた。一時は泰西・西洋・西欧へは追従の道を辿り,とくに史学も万国史をのりこえて,史学として包括し,それが西欧史中心であった。ランケ,ベルンハイムは,わが史学の中心の位置をしめた。その結果史学研究法は長くヨーロッパの史学を方法的に学ぶものとされた。それにくらべると日本の東洋史学は,アジアに対しては,日本中心の研究でしかなかった。朝鮮古代史の研究も日韓古代史の比較研究からはじまっていても,その中心はいつも日本にあった。そのことは,アジア連帯の思想の上での研究を不毛にした。わが国東洋史学の成立は,明治30年ごろで,教科書の日・東・西三分法と関連する。日清戦争後のことで中国中華観はくずれ,蔑視観が拡大しつつあり,朝鮮の保護国化の道が開くなかで展開している。その結果とくに明治40年代になると満鮮史という形をとる。とくに白鳥庫吉が東洋協会学術調査部(1907)を設け,「東洋学風」(1911)を創刊,ついで「朝鮮史」調査へのり出し,箭内亙・松井等・稲葉岩吉・津田左右吉・池内宏らを育成した。この研究は,それ以前の那珂通世・内藤虎次郎らの業績とはかなり異なるものであった。支那史学という名が多かったのが,東洋史学へとかわったのも,そうした動きのなかである。日本史学も抹殺論を通過したが,シナ学でも抹殺論から出発した。それはともかく,わが国東洋学は戦争とかかわって研究所がつくられたことも事実であるとともに,つねに漢学の基礎学力に支えられた面もつよい。もっと世界とのかかわりでの研究もあってよかった。一方,日本の西洋史学は,西欧史学理論の導入の機能を果たし,その紹介に力を尽す。そのためか史観の紹介学問と堕し,坪井九馬三ベルンハイムによりすぎたごとく,箕作元八らはランケ,トライチケの学問の紹介に終始している。こうしたなかで,原勝郎は脱亜入欧論的学者として,ヨーロッパ史学を学びながら,日本の中世史の研究をすすめ,従来の古代・上代史研究重視をあらため,西洋の中世史との比較を志向している。彼は時代史としてでなく,中世史という分野を開拓した。平安末期をもって国風文化の堕落ととらえて中世の出発をそこに求め,辺境荒廃の地に改革の原点を求めた。原の学問は足利時代にルネサンスを意識したもので,室町時代暗黒時代論に光をそそぐものであった。彼は当世一流の史筆をもって任じた山路に対し,「箸にも棒にもかからぬ難物」とか,「史料取捨は切抜文句の補綴にすぎない」と批判している。そうした人が出て,西洋史学も次第に本格化するが,それは大正期をまたねばならない。

【日本文化史学の伝統】日本文化史学は文明史の伝統をうけつぐもの,内藤湖南『近世文学史論』や内田銀蔵の日本近世史のなかに日本文化史への動きを見出すことができ,原勝郎の日本中世史などもその努力の一つであり,田口卯吉の文化史観の存在を考えると,日本文化史の伝統は明治時代に遡及し得る。わが国において,文化という語を用いた史書は,金沢庄三郎『言語の研究と古代の文化』(1913)といわれている。京都大学は文化史の伝統をもち,三浦周行は,地方文化への関心を明治末年より示し,柳田らの郷土会運動と時期を一にする。日本文化史学の体系化した人に西田直二郎がいる。彼は内田銀蔵によって紹介されたコンドルセーの影響をうけ『日本文化史序説』においても,「人間的自我」の自覚というところに精神文化の内容のあることを示し,文化価値を問題にし,時代的傾向性の把握につとめた。彼は「風俗」にも目を開き,それを文化史の一分野とし風俗史をつくり上げ,文化生活への関心をよせている。西周はラムプレト流の文化史学を尊重した。彼は自らの学を「精神文化史」と規定している。その門下の中から石田一良・林屋辰三郎・奈良本辰也・柴田実のごとき人や,肥後和男の歴史心理学的方法まで生み出している。西田文化史学は文化荷担者層に着目し,時代文化をその身に荷い,文化発展の上において果たした社会的機能を尊重した。その点,津田左右吉の場合はいささか思想史的であるが,彼も国民思想を国民生活の心的側面とのつながりにおいて把握しており,歴史は人の生活過程とも把握している。彼は歴史を社会科学とは考えない。しかし,現代の視点に立つべきものという。また,その学は民間史学の立脚点は失わず啓蒙主義史学の伝統を継承している。しかしそれだけに文明史学やマルクス主義への批判もきびしい。また日本思想史学の確立者村岡典嗣は,ヴイデルバンドの影響をうけ,その学問的出発点は本居宣長研究であり,『神皇正統記』の研究である。史実に対する批判的学風と国体,日本思想,日本精神に対する厳正なる認識にいきた人で,言挙げをいやしみ亡霊を尊ぶ学風を確立した。つねに文献学尊重の立場にたち文献の考証と解釈に全力を尽した。自ら思想史はある意味で文化史に属するといい,リッケルトによって自然科学とのちがいを明確にしている。村岡も多数の門人を育成している。そして文化史を「精神的文明史」とも規定しているが,その大系の完成をみず未完のままなくなった。なおその他にも西村真次のように民衆の生活様式,とくに社会・工芸・土俗を含み,人種的要素との関連で考える人も生まれ,日本文化史とは日本民衆の生活様式と考える人も生まれた。こうした先駆者らによって,日本文化史と名づけられる講座が大正から昭和初年に出されて,一つのブームを形成している。和辻哲郎は『古寺巡礼』や『日本古代文化』を書き,古代美や古典文化への憧憬をあらわす。彼は国民道徳論に反対し,実存啓学などに依拠してその学を確立したためか,コスモポリタニックなものをもつ,その倫理思想史は,日本文化史に対する知識と洞察の総括であり,解釈学的了解の上に立つ「和辻学」であった。しかしそれ故に日本的ゲマインシャフトにはこだわりつづけた。平泉澄は「精神作用」を歴史の原理と考え,酔生夢死の徒輩は歴史と無縁と考えている。また官学アカデミズム実証史学に対しても,歴史をつらぬく冥との力を理解し感得しないものであるといっている。こうした学問的傾向が文化史学批判として生じたとき,それに対し何を原点にすえて史学の本質としたかは問われる必要がある。そのとき平泉史学に対し,実証史学で抗したもの,生活史研究にみちを求め,史学の対象を「生活」の上にたつ綜合史学と考え「国民生活研究会」に拠りどころを求めたもの,文化史の伝統を反省し,文明史や在野民間史学の継承に求めたものとがあった。

【日本社会経済史学の成立と唯物史観】明治30年代,日本労働者階級の成長過程で,マルクス主義が国内に紹介され『共産党宣言』が訳出され,唯物史観が合法的にうけつけられた。また財政経済史料の編纂が政府中心にすすめられた。福田徳三はマルクス主義の検討につとめ,大正デモクラシーのにない手となった。内田銀蔵はアカデミズム史学の克服をめざし,日本経済史のパイオニアとなり,比較経済史研究の一環にくみこんでいる。またヨーロッパ史との比較につとめ,日本近世史の開拓者となった。彼は社会政策学会にも参加し,自由民権の系譜への敵対者となったが,シュモラー,ワグナーの立場にたっている。福田はブレンターノの弟子となった。そして社会史への関心をひらいたので,喜田貞吉のごとき人を育成した。その後本庄栄治郎が西陣の研究を手はじめに社会史・経済史につとめ,米価調節のごとき時代関心のもとに研究をすすめ,大正末よりは社会史の概説づくりにつとめている。その門弟黒正巌は,経済史研究のみでなく百姓一揆研究につとめた。これは佐野学のような社会史研究の影響のもとで,階級闘争史として研究されている。その反面,被差別部落の歴史も水平社運動の展開と前後して研究が発展しはじめている。歴史が国体論とか国体明徴論を軸に展開した明治末にくらべると,大正デモクラシー期においては,社会史・経済史・文化史への関心がまし,市民的歴史学の系譜の展開が求められ,啓蒙史学にその始原を求める理論的検討も深化した。そのためか三浦周行は,文芸復興期の儒風とか山城の国民議会などの論文が「国史上の社会問題」(大鐙閣,1920)のごとく社会問題を真正面からとり上げるものも生まれている。本格的マルクス主義史学は平林初之輔,佐野学による。ここにおいて,唯物史観が公然として登場した。それとともにわすれてならぬのは人民史観の問題である。これは在野民間史学の継承とかかわる。山路愛山の人民史観などとのつながりも考えのなかに入れておく必要がある。しかし社会発展史を考えると,野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』のごとき社会構成史的把握のなかに科学的歴史学の原点を見出す考えも成り立ち得る。こうした内部に矛盾を含む波瀾の元をかかえていた。その上に「日本資本主義発達史講座」が27テーゼにもとづいて編集され,日本共産党の革命戦術と結びついている。このような動きは,史的唯物論に立つ科学者の組織への弾圧がつづき,昭和10年代の前半でほとんど壊滅的な打撃をうけることとなった。そのため,わずかなグループがのこるだけとなってしまった。その一つが渡部義通グループであり,羽仁グループであった。また労農によった労農グルーブがあり,それに近い社会経済史家として土屋喬雄らがいた。

【民俗学と生活史・風俗史】日本史学の転回点は昭和初年にみられ社会経済史学が発展した。その反面,日本民俗学を通じて常民研究・世相史研究に入りこみ,地方調査に努める人々が多くなってきた。そうしたなかで柳田国男,折口信夫らの影響が大きくなった。柳田は日本民俗学の開拓者として地方学を発展させた。彼は性を神聖視し,賤民・被差別部落への関心にかけるが,アカデミズム史学へ挑戦し流行世相,さらには地方・農政のほり下げにつとめた。また民俗学をもって常民を明らかにする史学と位置づけた。こうした柳田学への批判が栗山一夫(赤松啓介)からなされたが,マルクス主義者の中からも柳田の下にあつまった人も少なくない。折口は柳田のように,常民のみを追求するものでなく,異常民へも関心をよせた。そうした民俗学は,渋沢敬三の常民文化研究への関心とあいまって,民具その他の物質資料調査とあいまって,歴史と庶民とのかかわりをとくものとなった。それが斎藤隆三のような世相史,江馬務のごとき風俗史を発展させることとなった。これらは文化史学をより発展させる力ともなった。その上に中村孝也らの生活研究の刺激ともなり,綜合文化史の発展を刺激した。そうしたなかに田村栄太郎のごとき在野民間史学の伝統をつぐ反骨の歴史家もいる。彼は百姓一揆の指導者の研究から,裏返し的な人物研究,さらに『日本風俗史』(白揚社,1936)を成立させた。彼は従来の風俗史が花葉だけをとりあつかって基幹たる政治・経済を無視していることへの反省を求めている。また彼は『郷土史研究の手引』(白揚社,1938)を発表し,その具体的方法を提示し,国史学を支えた日本古文書学の様式論批判をしている。その上に雑誌「日本の風俗」を刊行して,地方史研究者を結集しようと考えたのである。これは田村が全国の郷土史研究者の組織化のなかで,もっと生活に根づいた歴史を確立しようとしたのであることを示している。またそうしたことを期待させる力はあったともいえよう。たとえば信州の栗岩英治,市村威人,一志茂樹をはじめ,群馬の八木昌平,北海道の高倉新一郎ら各地に郷土史を切り開いた人はいる。「ひだびと」による江馬修夫妻もいた。こうしたものに柳田国男は地方文化の根として支援をつづけた。

羽仁五郎と歴史学研究会の成立】羽仁は城のない都市桐生の市民の子として生まれ,自由学園の羽仁家に養子となった。若き日にロシア革命や長谷川如是閃の影響をうけ,ミヒシャル・コオルハアスの影響,イエリングの権利闘争をよみ市民精神をもつ。東大独法をやめ,ドイツのハイデルベルグ大学に留学し,リッケルト,ヴンデルバンドに学ぶ。そしてイタリアへいきクローチェに教えをうけ,日本へ帰り,黒板勝美について日本史を専攻,史料編纂所に入って改革を提言したが辻善之助に拒否され,渡辺世祐のすすめで日大予科教授となる。彼は「転形期の歴史学」で反歴史主義批判を展開−平泉史学批判−その後,史的唯物論へ接近,その後,終始日本の近代思想の前提を求めつづけている。羽仁五郎は,史学会50年を契機にその改革を考え,「明治維新史研究」を発行,史観をめぐる議論を展開した。しかるに東大アカデミズムの外に歴史学研究会創立をめざす庚午会グループがいた。それが新興史学建設の動きであり,雑誌「歴史学研究」を刊行した。しかし羽仁はそうした動きには賛同していない。その後,歴史学研究会成立は平泉派の台頭の結果史学会をその掌握下におかれた。歴史科学は唯物史観に立脚するマルクス主義者中心の組織となった。この種の動きに対し,昭和8,9年ごろより日本浪漫派のコギトを中心に日本学樹立の動き,新日本文化の創造の方向が生まれた。それに対し,戸坂潤は日本イデオロギー批判,早川二郎は社会構成体をといて抵抗している。その激しい対立は,日本にファシズムヘの抵抗線をひくことができるか,人民戦線が確立できるかをめぐる闘いであったと考える。そうしたなかで服部之総のごとく講座派に属した人のなかから,羽仁五郎批判も生まれている。たしかに昭和一桁代の宗教批判をはじめとする市民的批判精神が,昭和10年代となるとかなり大きく転回せざるをえない状況へ直面している。

【戦時下の日本史学】永田広志は戸坂潤とともに唯物史観の上にたつ日本思想史研究につとめ『日本唯物論史』,『日本哲学史』,『日本封建制イデオロギー』,『日本哲学思想史』をあらわし,その他に三枝博音のような唯物論史科学哲学史を専攻した人もいた。そのほかに唯物論全書が出たが,国学洋学論争を通じて封建的遺構や近代化の萌芽をめぐる論争が展開した。ドイツフランクフルト学派の抵抗のあり方より学ぶ思想史研究も展開し丸山思想史学の原型が成立した。また西岡虎之助の民衆生活史の方向や柳田・折口の民俗学などの動きがみられる。それにくらべると西洋史家はかなり時代にクールに対処したが,日本史学者の中には歴研からはなれて右傾化した人もおり,かつ皇国史観が昭和8年ごろより急速に成長している。しかしそうした動きの中でも郷土,地方,草莽依拠のなかで,民衆史に先駆するものをつくった人々もいたといえよう。

【戦後歴史学の転回】敗戦は天皇制政府批判を解禁にし日本ファシズムの無責任体制を問い糺し,なぜ抵抗線がひけなかったかを考えさせ,前代の史学史を回顧・展望し,国史学批判の視点確立につとめた。柳田国男は戦後社会の出発にあたり,「新国学談」シリーズを発表し,自らの学問的主題を[1]国民の固有信仰[2]人の心を和らげる文学[3]国語の普通教育を求めた。その一方歴史学研究会は国史学の戦争責任を追求し1946年(昭和21)6月9日の大会で科学的真理以外のどのような権威を認めないで,つねに学問の完全な独立と研究の自由を主張する綱領を採択して再出発し,人民との正しい結びつき,国家的民族的そのほかのすべての偏見の打破,民主主義的な世界史の立場を主張するとしている。その成立にはプロ科系の民主主義科学者協会を担った人々と羽仁五郎グループとの抗争があった。そのため人民史観,社会構成史研究とのかかわりをめぐって激しい論争がたたかわされた。「くにのあゆみ批判」でも足並みは揃わずにいたが,次第に落ち着きをとり戻し,日本史研究会,歴史教育者協議会を成立させている。その上,神道批判,女性史研究の発展などが試みられた。その上,悪しき封建・差別の克服・近代化を求める研究,フランクフルト学派の再検討が求められ,丸山真男,奈良本辰也の思想史・社会史を求める研究が継承された。とくに戦後歴史学は石母田正『中世的世界の形成』のごとき領主制理論のなかに中世的世界への形成の展望を見出した。それに対し,人民の評価が低いとの批判が出されたが,学問的には石母田理論の打破ができずにいた。それを克服せんとするものが権門体制論や南北朝革命論である。その一方農地改革による農民解放は山村解放を課題としてのこす結果となり,農村史,山村史,入会などの研究を促進した。そのことが中国革命の勝利とかさなっている。1952年(昭和27)石母田の『歴史と民族の発見』(東大出版会)は日本民族の帝国主義よりの解放にあるとといたが,人民史観の挫折とうけとめられたりした。また村の歴史,母の歴史,工作者の歴史とも考えられた。これはスターリンの民族問題のうけとめ方とかかわっていた。北山茂夫は石母田英雄時代論の不毛をとき,古代専制をあいまいにするものと説いた。その一方,水野裕は『日本古代王朝史論序説』(小宮山書店,1952)をかき,万世一系的神聖家族の継承の虚妄性をといた。そして王朝交替論を主張した。しかし全体的にいえば1949〜52年をピークとして,戦後歴史学は問題提起段階をすぎはじめ,1950年代の学問水準をつくった。それは戦略的学問が行き詰り,実証主義研究の壁にはばまれたことによる。そうしたなかで大学のアカデミズム史学が完全に着実に新史潮をふまえて,実証的成果をあげはじめている。

近代化論とそれへの拮抗】1960年代になると,再び日本近代化論がアメリカの世界戦略により提起され,大塚史学のよわさの克服が変革の主体の追求と,中間層か人民かで課題となる。ロストウ近代化論もあって,維新の再評価と近代化の始点をめぐって活発な議論を生んだ。日本の維新の世界史的位置づけと近代日本の特質をめぐる論議がおこなわれた。とくに生産力の発展をめぐる理論的追求が近代社会観の形成とかかわって論議されている。これは生産力理論への批判となってあらわれ,民俗にねざした民衆思想の位置づけに力がそそがれ,自制の道徳が「共同体」とのかかわりで,近代化に抗する力の養成の場で自立の思想の根拠ととかれた。しかし,これでは古き桎梏の打破する創造力をただ抵抗のなかにしか見出し得ない弱さをもっていた。むしろ宗教的自然観の克服,自然観の転回さえ必要とされるにいたった。その後,日本においては,歴史学そのもの,変革が過程にのぼり,民衆・地方の発見が,林屋辰三郎によって主張されたとおり,再び浮上して来た。また色川大吉『明治精神史』はモダニズム批判の視点を示し,地下水や伏流水を汲むことのなかから天皇制国家イデオロギーとの対決を求めるものであった。それが民衆忠想史であった。林屋はまた文化を生み出した祖先・庶民の生活探究に方向をむけ,総合性のある学問を求めるにいたった。これによって,自ら創造主体となる学問の確立を志向している。こうした論点は,戦前における総合史観の名で追求したものに近い。国民生活史と名づけられたこともあった。真に実証主義的歴史学は総合性と生活性と社会性をもつものであるべきであるが,そこに近代性と市民性をもつことが必要であるとともに,社会性をより広める学際性を必要とする。また自然料学や社会科学その他との連携,芸能性と行動科学性をもつ学問への脱皮を必要とする。そのためには歴史学は総合科学とならねばならない。自然・風土・環境・地域に根ざしたものとするために,民俗学・民族学・考古学・歴史地理学はもちろんのこと,もっとより広い学問とのつながりを求めることを重視する。

〔参考文献〕芳賀登『批判近代日本史学思想史』1974,柏書房