●史学史(東洋) しがくし(とうよう)
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わが国では歴史研究の分野を,国史(日本史)学,東洋史学,西洋史学の3分野に分けるが,東洋史学はその分野の一つで,アジア全域を対象とするものである。【東洋史学のおこり】慣用としてオリエンタル-ヒストリーという場合があり,それは古代オリエント学と混同されやすい。オリエントとは,一般に西アジア地域をさし,西洋と対照させた地理上または地域上の呼称である。正しくはイースタン-ヒストリーというべきであろう。日本では東洋という場合,狭義には中国・朝鮮・日本などの地域をさし,それにインド方面を加えることもある。広義には近東地域以東のアジア全域に及んでいる。日清戦争以後,日本の民族的自覚の高まりとともに盛んに東洋の呼称が用いられるようになった。それは西洋と異なった土着的な東洋一般にみられる独自のインヴォルーションをもつ文化の特性を自覚的に主張しうるようになったからであり,それにより東洋史学の成立を一層促進させたのである。
【東洋史学の成立とその限界】西洋ではアジア研究の歴史は古いが,とくにその研究はインド航路発見以後盛んとなり,アジア研究(東洋学)をシノロジー,インドロジーなどと呼び,フランスを中心に研究は大いにすすんだ。日本では1886年(明治19)に,ドイツのリースを東京大学に招き,西洋の新しい史学研究法を導入しようとし,留学より帰った坪井九馬三とともに新設の文科大学史学科で教鞭をとった。やがて白鳥庫吉が学習院で東洋諸国史として朝鮮史を講義したのが,学術的な意味において日本の東洋史学のはじめといえよう。明治20年代に日本人はアジア民族の歴史を組織しようとし,1888年(明治21)から1892年(明治25)にかけて,那珂通世は『支那通史』5冊を刊行した。宋代末で休刊したが,漢文体訓点付の和装本であり,空前の名著となり,清の羅振玉が訓点を除き去って縮印したほどである。支那史と名乗る著述が続出したなかに,イチムラサンジロウ※注1※・滝川亀太郎が『支那史』6冊を刊行し,宋以後の新しい時代を完備させた。1894年(明治27)に那珂通世・三宅米吉らの建言で,文部省はこれまでの中等教育の支那史という科目を東洋史と改め,やがて『東洋歴史』(宮本正貫)として出版された。1896年(明治29)に藤田豊八『中等教育東洋史』を,翌年イチムラサンジロウ※注1※が『東洋史要』を刊行し,さらにその翌年に桑原隲蔵が『中等東洋史』を刊行したが,これは教科書であるとともに学術的に優れたものとして東洋史の体系に範を与えた。こうして東アジアの歴史を東洋史学として成立させたが,明治前半期の東洋史は主として中国史を意味し,いわゆる漢学の一部門であり,けっして科学的研究方法によるものではなかった。
【東洋史学の発展】日露戦争以後,日本は満州の権益を継承し,大陸への発展における国策とも軌を一にして,研究機関や大学の講座が拡大された。東京大学の支那史学科が東洋史学科と改称され,ついで京都大学,早稲田大学,慶応義塾大学にも東洋史学の講座が置かれた。1907年(明治40)に静嘉堂文庫が設立され,翌年南満州鉄道株式会社に満州地理歴史調査部が置かれ,多くの研究者が育てられる一方,『満州歴史地理』,『朝鮮歴史地理』にその成果が発表された。さらに第一次世界大戦から昭和初期までは,政府の大陸進出への積極策と連動して東洋史学の研究も一層拡大された。一方,九州,京城の帝国大学をはじめ多くの私立大学にも東洋史学の講座が設けられた。またその研究水準もきわめて高く,研究範囲は中央アジア方面にまでひろがった。1924年(大正13)にはモリソン蔵書を基礎にして東洋文庫が設立され,1929年(昭和4)に東方文化学院が東京と京都に設けられ,現在それぞれ前者は東京大学の東洋文化研究所,後者は京都大学の人文科学研究所に合併されて発展している。昭和の初期から1945年(昭和20)の第二次世界大戦終結までの東洋史研究は著しく進展し,社会科学としての経済・社会や諸制度の研究は,世界的水準のものが多くあった。しかもその研究範囲は,インド,東南アジア,西アジアにまでひろがっていった。1942年(昭和17)に文部省が大東亜史の編纂を試みたが,それが基礎となって戦後に宮崎市定の『アジア史概説』として結実している。この背後には全アジア地域の研究のひろがりとその成果のあることが一つの動力となっている。
【現代の東洋史学】第二次世界大戦の敗退により一時研究が停退したが,1950年代にはようやく回復し,東南アジア・西アジアについての史料を基礎に研究がすすみ,さらに中国史に関しても各時代の研究課題が深化して高い水準の成果が発表されつつある。また,中国近・現代史の研究も盛んになった。近代史は1949年(民国38)に勝利した中国の新民主主義革命の必然性,正当性を解明しようとする問題意識によってすすめられ,近代中国史像の把握のために,清朝専制王朝を打ち倒した辛亥革命の性格規定(変革主体)が中心的課題となり,ブルジョワ革命,絶体主義革命,郷紳革命などの見解の提起がなされたが,諸説とも決定性を欠いた。そうした状況下で,近代中国が世界資本主義体制に繰り込まれるなかで「資本のための隷農」となった農民を主力とする人民の反帝反封建闘争が中国近代史を推し進めた原動力であったとする人民闘争史観も提唱された。現在,資本のための隷農を中国史の内在的発展のなかにどう位置づけるかが模索されている。また中国における現代化政策のなかで,資本主義の歴史的意義を過小評価した研究への反省が生まれている。一方,現代史研究はまだ歴史研究として日は浅いが,しだいに注目すべき成果をあげている。現代史は中国史研究者以外の政治学,経済学,社会学や文学などの研究者によって研究がすすめられている。最近日中文化交流が盛んになるにつれて,学問的交流を通じて両者の理解と学問の発展をはかることが望まれている。
〔参考文献〕山根幸夫編『中国史研究入門』上・下,1983,山川出版社
『アジア歴史研究入門』1〜3,1983,同朋舎出版
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