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●史学史(西洋) しがくし(せいよう)

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【古典古代】歴史学は古くて新しい学問といわれる。厳密な意味での歴史学の成立は近代に入ってからであったが,人間活動としての歴史は人間社会の起源にまでさかのぼることができる。原始社会の人々が彼らを取り巻く過酷な自然環境のなかで生きていくために必要な諸々の知識を子孫に伝えていくのはいうまでもなく彼らが体験した事柄を通してであった。長い年月のうちに徐々に集積されていった知識がその社会を成熟したものに導いていったが,そうした伝統の一部として人々の生きざまのなかから特定の事柄が取り上げられ,まとまりのあるものに仕立てられていったのである。そしてその中核をなすのが神話や叙事詩や伝説であった。直接的・具体的生活技術のほかに,それぞれの社会の存続に重要な役目を果たした英雄たちの偉業(とくに政治・軍事上の)がその社会のシンボルとして賞賛され,後世へと語り伝えられていった。その際,過去の事実がそのとおりに話しことばで語られることなく省略・潤色・変形がほどこされたが,それはここでは厳密な事実ではなく鼓吹こそが大事であったからである。いわゆる精神的遺産の伝達がこれで,西洋歴史叙述の先駆的作品といわれるホメロスの『イリアス』『オデッセイア』もここに位置づけられる。原始社会から古代社会にいたる過渡期のギリシアの叙事詩人は社会の指導者として君臨したが,彼らにとってその歌った事柄(知識)は人間が獲得したものではなく,あくまでも記憶の女神ミネモシューネの娘たちの独占的所有物と考えられた。〈私に告げ給え,あなたがたは神様で,どこにでもおいでだからすべてを見ておられる。一方私たち人間は死すべきもので,なにも知らない〉(『イリアス』II・484)。過去に対するこうした精神的態度は,先に述べた口伝えによる継承の実態を覆いかくし,過去の知識の独占者としての権威を不動のものとした。こうした詩人たちの描いた神話的宇宙観にもとづく世界を批判,攻撃したのが紀元前6世紀ごろに新しく興ったギリシア哲学であった。彼らは事実的歴史と神話的伝説を混同した詩人の独断的主張に反発して,世界を構成する根源を求め,種々の説を提示した。そして彼らは等しく神の啓示に頼らない人間知を求めた。詩的権威や魅力が失墜し,代って批判的な探求や合理的思考過程によって真実が確かめられるようになった。こうした状況のなかから歴史が誕生したのである。ホメロスの叙事詩と同じように戦争を主テーマとし,英雄の偉業を賞め賛えることを目的としながら,〈怒り歌え,ムーサよ〉(『イリアス』)とか,〈ムーサよ,かの臨機応変の人物を私に語り給え〉(『オデッセイ』)という歌い出しで始まる彼の心的態度と,〈以下はハリカルナソスのヘロドトスの探究の発表である〉(『ヒストリア』I・1)とではなんと大きな違いであろう。またヘロドトス(前484ころ〜前425ころ)の先輩ヘカタイオス(前560/550〜前480ころ)は広く世界を探究してまわり,ギリシアの系譜とエジプトのそれとを比較することによってしだいに歴史的時間の観念を意識していった。イオニアの人たちが神話から合理的説明に移っていったように,彼は各地の風習や過去を直接観察者の眼で説明した。こうした動きこそ,歴史的世界の把握にとって基礎となる認識の主体の確立および漠然とではあるが,それまでとは異なった歴史的意識の誕生といえるだろう。大旅行家(といっても当時の状況からすれば大冒険・探検家に相当する)ヘロドトスも広く各地を尋ね歩いて集めた話を〈信じられる人はそのまま受けいれればよい。本書を通じて私の建て前は各人によって語られたことを聞きとりによって記述することである〉(『ヒストリア』VII・152)に真実探究の意味を解したが,これは聞いたことをそのとおりに伝えるという態度で,レポートにすぎない。これにあきたらなかったトウキュディデス(前455ごろ〜前400ごろ)はさらに一歩踏み込んで,つくり話を拒否し,あったことをあったとおりに正しく知ることに徹しようとした。ところが,当時の過去探究の貧しい方法では直接見聞きできるものしかその事実を確証できなかったため,その対象も同時代の,しかもごく一部のことに限られてしまった。またトゥキュディデスの事実探究は事実の確定にとどまることなく,それを通して人間の事物の背後にある不変なものの発見が目的であった。彼の歴史が実用的といわれるゆえんである。ヘロドトス・トゥキュディデスとともにギリシア三大歴史家の1人に数えられるポリビウス(前198ごろ〜前117)はトゥキュディデスの影響を強く受け,文学性を極力排除し,歴史の目的を事実の探究とし,新興国ローマの世界支配の成功をその政体循環に求めた。しかも同時代にとどまらず,歴史記述の対象を百数十年さかのぼった時点から始めている点はそれまでにはみられないものである。すなわちヘロドトスはペルシア帝国の概観を,しかもできる限り拡張して試みているが,その歴史は政治・軍事の年代記的提示という狭い意味ではただの20年間,しかもとくに最後の3年間を強調しているにすぎない。またクセノフォン(前434〜前354)もトゥキュディデスの後を継いで自分の少年時代から約50年間の出来事を記した。ポリビウスは直接見聞できない遠い時代のことは,それぞれの著者たちから素材を抜き出して編集するという方法をとったのである。このやり方を本格的に採用して,国家の起源から現在にいたるまでの歴史を編んだ最初の人は,ローマの歴史家リウィウス(前59〜17)であった。彼の前にはピクトル(前254ころ〜?),カトー(?〜前149),カエサル(前100〜44)が,また帝政初期にはタキツス(55ころ〜120)が現れたが,ローマ時代の歴史叙述はほぼギリシアの継承・発展と考えてよい。そして歴史叙述および技術の面で若干の進展はあったものの,彼らを取り巻く文化的環境の影響から逃れることができず,神話や伝説的要素が彼らの著作に忍び込んできた点を見逃してはならない。

【中世】ヨーロッパ中世の史学を特徴づけるものは“キリスト教的歴史観”である。ローマ帝政時代,その社会は未曽有の繁栄の後,政治不安・軍隊の跋扈・辺境紛争などによってしだいに動揺し,人々のあいだに不平・不満が増大していった。こうした状況のなかでキリスト教は弾圧にもめげず,社会の各層に浸透し,ついに国家の公認を勝ち取った。410年「永遠の都」と人々が信じていたローマ市が西ゴートの手によって陥落し,強い衝撃を与えた。この危機に際して,北アフリカのヒッポの司教アウグスチヌス(354〜430)は『神国論』を著してキリスト教擁護の論陣を張るとともに,当時の社会的・思想的混乱に揺れ悩む人々に導きの光を与えようとした。全22巻の後半で彼はキリスト教にもとづく独自の歴史観を展開した。すなわち彼は聖書の物語をもとに,「神の国」と「地の国」の起源・発展,そして定められた終末を描き,人類の始まりから最後までを六つの時期に区分し,その全過程を貫く神の意志を説いた。彼は人間の歴史をアダムからノアの大洪水,アブラハム,ダビデ,バビロン幽囚,キリスト誕生をへて最後の審判に終わる直線的展開としてとらえた。そして人々は信仰に生き,結果はすべて神に委せなければならないと説いたが,これは過去や現在の人間の出来事を探究するという人間的な事柄の記録という,それまでの古代ギリシアやローマの人々の考えた歴史とは著しく異なっていた。新しい歴史の見方はキリスト教会が魂の救済者としてだけでなく,中世ヨーロッパの政治権力と深く,強く結びついていくにしたがって社会のあらゆる分野に浸透し,歴史叙述の面でも決定的な影響を及ぼすにいたった。『教会史』を著したエウセビウス(260ころ〜339ころ),その後継者ヒエロニムス(347ころ〜420)にしても,ツールのグレゴリー(538〜594)やイギリス「歴史の父」といわれるベーダ(672〜735),さらにはフライジングのオットー(1110〜58)ら著名の歴史家は皆聖職者であり,したがってその著作もそれぞれ濃淡の差こそあれキリスト教的歴史観によって色づけられていた。すなわち,それらのほとんどが「神の国」「地の国」の思想を受け継ぎ,歴史を通して両国の戦いが続くと考えた。またその内容は遥かなる過去(あるいは天地創造のとき)から著者自身の時代にいたるまでの歴史を述べた部分と著者の同時代の出来事の部分からなるが,その構成からすると同時代の記述に多くのページをあて,それを挟むようにして前には天地創造などの物語や伝説を,後にはきたるべき神の裁きを配しているのである。こうして聖書から採った歴史年代図式によって過去の出来事を配置し,キリスト教の理念と歴史事実の融合をはかろうとしたが,両者は水と油のように融け合うことはなかった。ふつう中世には歴史観はあっても歴史の方法や正確な叙述を欠いていたといわれるが,実際には世界年代記のなかで,著者が直接見聞きした,時間的にはそれほど長くはないことを詳細に記した部分が多くを占めていることでもわかるように,目撃したことを書くことに力点が置かれた。これはギリシア・ローマの歴史家が扱ったのと同じである。ただ中世では宗教的権威への盲従が,聖書物語や聖者伝などへの過度の信頼を許してしまったのである。

【近世】12〜13世紀に盛期を迎えたヨーロッパ封建社会はその後貨幣経済や都市の発達,遠隔地貿易の隆昌,荘園制の解体などを通して急速に変質し,市民階層の台頭,身分制議会をへて王権が強化されていった。一方キリスト教会は十字軍の失敗や内部の自壊作用などでしだいに衰え,いわゆる社会の世俗化が進行していった。こうしたなかで新しい文化運動が興った。これは当時澎拝としておこった古代ギリシア・ローマの古典へのあこがれと相まってキリスト教の束縛をはねのけて,人間的で闊達な精神をよみがえらせた。これがルネサンス運動である。歴史意識の面では,人間社会を推しすすめるのは神ではなくて人間であり,歴史は繰り返すもの,したがって数々の教訓,なかでも政治的教訓を学びとろうとする古典古代の歴史に対する態度を復活させた。フィレンツェのマキャヴェリ(1469〜1527)は当時の大方の人が懐いていた神や運命の力に代わって,運命に挑み,それを巧みに操るヴィルチュをもった個人(天才)が国家や歴史をつくっていくと説いた。古典研究から入手した華やかで洗練された表現力は歴史叙述を豊かにし,またその地域主義はヒューマニストに自分たちの都市や国家の歴史に目をむけさせ,同時代史に力を注がせた。ヒューマニズムと古典古代の再生はイタリア全土にみられたが,イタリアの知の中心としてフィレンツェの人々の学芸活動はとくに著しいものがあった。サルタチ(1330〜1400)の影響を受けたブルーニ(1369〜1444)は人文主義歴史の代表的人物で,後世の歴史家に大きな影響を及ぼした。マキャヴェリは『君主論』『ローマ史論』のほか,代表作の『フィレンツェ史』で歴史を人間の闘争ととらえた。また彼とほぼ同時代の人にギッチァルディーニがおり,『フィレンツェ史』『イタリア史』など彼の著作に広くみられる特徴は,その広い経験にもとづくすばらしい洞察力,澄み切った冷徹なまでの叙述である。また世評や個人を重視したルネサンスの心的態度は優れた伝記をいくつも生んだ。なかでもヴァザァリ(1511〜74)の『美術家列伝』は名高い。イタリアで華麗に花開いたルネサンスの文化はやがてアルプスを越えてフランス,ドイツさらにはスペインへと波及し,また海をわたってイギリスでも栄えた。そしてこれらの各地でイタリアの人文主義的新風による歴史叙述が盛んになった。これらに共通してみられることは,中世スコラ哲学に対する反発と愛国心の鼓吹や自国の王室の擁護であった。イギリスのフランシス=ベーコン(1561〜1626),カムデン(1551〜1623),クラレンドン(1609〜74),ドイツのツリテミウス(1462〜1516),ケルテス(1459〜1508)らが有名で,その作品はいぜんとしてそれぞれ著者と同時代を取り扱ったものが多かった。一方ルターやカルヴァンらによるキリスト教改革運動は,教皇やトリエント公会議の権威に対して聖書や初期教会の歴史を拠り所として抗議したことから始まったが,彼らは自分たちの主張が聖書や教父のものと一致し,教皇による簒奪によってキリストの教えが曲解されていることを証明しようとした。これに対してカトリック側はキリストの時代から教会の教えは一貫しているとし,また聖書と教会の伝統はともにキリスト信仰の正しい源だとして反論した。ここには歴史の問題がからんでくる。すなわちルネサンスの歴史家たちは教会を軽視し,その歴史にはほとんど関心を示さなかったが,宗教改革を機に新旧両派はそれぞれ自派を守り,その歴史的正当性を証明しようとして代表を立てて争い,歴史論争へと発展していった。ルター派改革者のなかで最も精力的に活動した人はフラキウス(1520〜75)で,彼はヒューマニストであると同時に文書収集家としても卓越していた。これに対してカトリック側はバロニウス(1538〜1607)が『教会年代記』を著して反撃した。著名な歴史家としてはそのほかにメランヒトン(1497〜1560),フォックス(1495〜1563),スレイダヌス(1507〜56)らがあげられる。こうして16世紀の後半から17世紀にかけて古文書の批判的研究が盛んとなり,イエズス会のボーランダス(1596〜1665)を中心に編纂された『聖者伝』やベネディクトゥス派のものはとくに有名である。ところが過去への関心や証拠解釈の難しさが実際に手がけた文献学者によって明らかにされ,それを乗り越えるために必要な理論の組み立てが求められた。モーリストのひとりで,ダーシェリー(1609〜85)の弟子であったマビヨン(1632〜1707)は論争の根拠とされた証拠史料の真偽を判定するための基準となる手引き書を作成した。これが『古文書論』で,近世歴史研究法の最初のものといわれる。彼とほぼ同時代のティユモン(1637〜98),ライプニッツ(1646〜1716),ムラトリ(1672〜1750)らはこうした史料の科学的操作によって同時代史の域を越えて遠い過去を再現しようとした。またボスエ(1627〜1704)の『世界史論』も論争的であったが,プロテスタントの著作やその信仰告白にも十分な配慮が加えられ,長い論争にもようやく終結の兆しがみえてきた。この書はルイ14世の太子の教育のために書かれたもので,その名のとおり,国を位置づける世界地図になぞらえて新しい歴史叙述を意図したといわれる。そこでは国家の興亡を対象としつつも,神の摂理がない限り誤りを犯すとの筋が貫かれており,近代カトリック歴史哲学の最初のものといえよう。そしてやがてこれはボルテール(1694〜1778)ら啓蒙思想家によって徹底的に批判された。このように史料としての文書の真偽を疑い,その批判を通して過去の事実を明らかにしようという努力は,デカルトの時代の懐疑的精神と相まって碑文学,公文書学,年代学,書誌学,貨幣学などの新分野を開拓し,宗教改革の初めには予想もしなかった結果を生んだ。これによって「歴史学」は飛躍的に発展するかにみえたが,18世紀に入っても歴史叙述や歴史解釈にはほとんど影響せず,証拠の相対性を克服できなかった。そしてその関心はもっぱら文書の真正性を探ることに限られた。一方,人間を取り巻く自然は近世以降,経験・観察・実験による人間の理性の力でしだいに解明されていった。しかしこうした科学革命が真に歴史的世界の発見へと拡大されるのは19世紀に入ってからのことであった。それに先立つ18世紀までの歴史叙述は大まかにいって自律的学問とはみなされず,「修辞学」や政治的教訓ないしは博識の域を出ず,主として人間世界の出来事や経験を記述するにとどまっていた。ところがフィロゾーフは道徳的・宗教的権威を嘲笑しただけでなく,古物研究の末梢的事実の検証を軽蔑し,学問の成果は情報源として利用はしたが,やがてそれも無視した。そして彼らはすべての人,どこででも通用する真理を求めた。人は重力の法則に従うように風俗習慣を獲得するし,歴史家は自然科学者が実験室での観察を記述するのとまったく同じようにこうした風習の規則性を記述すべきだとした。そしてこうした歴史観察によってなされる人間性の理解こそが人間の幸福を増進する社会的・政治的仕組の発見へと導いてくれると考えた。そして従来の世界史への批判にとどまらず,新しい世俗的・合理的世界史を構想したのである。これが啓蒙主義歴史である。この時代はしだいに実力を蓄えてきた市民階級が伝統を打破して権力奪取をめざし,イギリスで始まった産業革命やフランス革命によってヨーロッパの経済・社会・政治が激しく変動していく19世紀のさきがけをなす時代であった。したがってそれは当然彼らの歴史意識にも反映し,輝かしい未来を保証してくれる証として過去から現在への歩みを進歩ととらえた。ただこの時代の歴史は,経験と功利と習慣を重んじるイギリスと,理論的・合理的なフランスとでは異なっていたが,一般的にいって一種の文明論へと傾斜していった。イギリスのロック(1632〜1704),ロバートソン(1721〜93),ミラー(1735〜1801),ギボン(1737〜94),フランスのモンテスキュー(1689〜1755),ボルテール,チュルゴー(1727〜81),コンドルセ(1743〜94)らが著名であり,またドイツではゲッチンゲン学派の人たちが活躍した。これらの歴史家はルネサンス時代を乗り越えて生きつづけ,ある点で宗教改革や反宗教改革によって力を盛り返した聖なる歴史・教会中心の歴史を世俗の歴史に従属させ,政治に限らず貿易や産業・社会生活・文化の発展について多く語った。またその叙述の対象もヨーロッパを越えて全世界にひろげた。そして当時の社会の不合理を攻撃し,過去の成果や信仰を非合理だとして排斥し,ヨーロッパの精神界を風靡したが,これに対する反動も避けられなかった。すなわち,ヴィコ(1668〜1744),ヴィンケルマン(1717〜68),シャフツベリ(1671〜1713)ら18世紀初期の一部の思想家はすでに啓蒙思想の無神論や主知主義に抗議していたが,しかしなんといっても理性・自然法・進歩をモットーとした啓蒙思想の具現であり,それを成就するために暴力・破壊も辞さなかったフランス革命の展開は,保守派はもとより穏健派さらには自由派の人々をも新体制から遠のかせた。そしてこの空白をみたしたのがロマン主義であった。ロマン主義運動はドイツ,イギリスでまず始まり,その後各地でも展開した。ヘルダー(1744〜1803)はドイツ啓蒙思想家の1人であったが,ルソーの影響を受けて歴史を理念の発展史としてとらえ,民族の個性に注目して啓蒙主義からロマン主義への移行期に位置した。ロマン主義によって批判,攻撃された啓蒙思想の一部は歴史の法則としての進歩や自由,宗教的寛容の信念としてやがて19世紀自由主義の世界観に吸収されていった。また世俗的観点から原因を探り,世界的な規模で文明や理念の歴史を描き,人間理性が事件を形づくると仮定し,歴史叙述の大切さを感じさせる彼らの術は啓蒙時代の歴史家の残した豊かな遺産といえるだろう。

【近代】ロマン主義は啓蒙思想が理性を過大に重視したことに対する反省として,感情や意志のはたらきに注目し,抽象的・機械的な見方に甘んじることなく,人間の精神活動を一層具体的にとらえようとした。ロマン主義の歴史観はダイナミックで,発展的かつ有機的であった。歴史を永遠に生生流転する過程,無意識な,説明できない神秘的力によって支配された発展とみなした。そして国民性をつくり出す源,永遠の理想の源泉としての土着の歴史を強調した。さらに過去,なかでもとくにそれ自体価値を有し,しかも現在の源として中世キリスト教やゴチックの世界に熱いまなざしを注いだのである。そしてこれは19世紀初めのヨーロッパの思想や文化のあらゆる分野に痕跡をとどめ,歴史叙述に及ぼした影響もきわめて大きかった。ドイツ=ロマン思想はスタール夫人(1766〜1817)の著作『ドイツ論』を通してフランスに伝わり,その時代の歴史家たちに大きな影響を及ぼした。シャトーブリアン(1768〜1848)やバラント(1782〜1866)は歴史小説の魅力を歴史叙述に復活させようとつとめ,チエリー(1795〜1856)は政治的自由を代表し,愛国心を鼓吹するには歴史研究が重要な役割を果たすとした。この流れを汲む人としてティエール(1787〜1877),ミニェ(1796〜1884),ギゾー(1787〜1874)らがいるが,この時代のフランス最高の歴史家はミシュレ(1798〜1874)である。彼は人道的立場に立って,教皇至上主義や保守主義と鋭く対決し,『革命史』や『フランス史』を著した。イギリスのロマン的歴史はスコット(1771〜1832)の歴史小説の影響を受け,バビントン(1795〜1881),マコーレー(1800〜59),カーライル(1795〜1881)らは歴史は事実を通して過去の精神を復活させるものとした。一方,啓蒙主義時代華々しい史論のかげに隠れて続けられていた地道な史料収集およびその批判研究はタッサン(1697〜1777)の『新古文書論』をはじめとして数々の業績を生み,歴史に理解を有した政治指導者シュタインの下で大規模なドイツ史料の収集・出版がなされた。こうした雰囲気のながでニーブール(1776〜1831)は厳正な史料批判の成果を『ローマ史』としてまとめ,彼の研究態度はランケ(1795〜1886)に強い刺戟を与えた。ランケはニーブールが古代に関して成し遂げたことを中世および近世について完成しようとしただけでなく,これにもとづいて“それが本来どうあったか”をただ示すだけという自我を消し去って事物に語らせる“客観的歴史叙述”に徹しようとした。そして人類の歴史を時代から時代へと直線的な進歩や完全化への高揚ととらえる啓蒙主義的歴史観やヘーゲル(1770〜1831)の理性的で観念的な歴史観を厳しく批判し,理念よりも直観,概念よりも事実を重んじて,いずれの時代も神に直接し,それぞれが特殊な傾向と独自の理想をもっているとの立場をとった。また各世紀の支配的な傾向としての指導理念を個別的に記述するとともに,諸民族の歴史にとどまらず,世界的立場に立って全体の関連を追求した。このようにランケは合理主義の分析的方法とロマン主義の生き生きとした描写とを歴史学派の批判的方法の上に立って総合し,その長い生涯の全霊を歴史に捧げ,近代歴史学を確立したのである。歴史叙述へのランケの影響は19世紀の半ばまでヨーロッパはもちろんアメリカにまで及び,なかでもドイツではヴァイツ(1813〜86),ギーゼブレヒト(1814〜89)ら多くの弟子が輩出した。しかし,やがて彼の学風を受け継ぎながらも,その禁欲的客観主義にあきたらず,一刻も早くドイツ統一を実現しようという当時の政治情勢を反映して,歴史学をドイツの自由主義・国民主義運動に役立てようとしたプロイセン学派が台頭した。すなわちダールマン(1785〜1860),ハウザー(1818〜67),ダンカー(1811〜86),ドロイゼン(1808〜84),ジーベル(1817〜95),トライチケ(1834〜96)らは「政治と歴史の合体」を意図し,歴史の政治化を進めた。しかしドイツ統一実現後,ビスマルクの隠退を機にこの派は姿を消し,政治と歴史を分離して純粋な専門的研究の必要が強調された。また19世紀後半の歴史叙述の最大の特徴は国によって多少の差はあったが,批判的・科学的学風の導入,普及であったといえる。当時の人は以前にもまして近代自然科学の発展に大きく影響を受け,「歴史学」の性質や方法についての論議にも絶えずこの問題が顔を出すようになった。歴史を“科学的”という場合,二つのことを意味した。すなわち,証拠の収集や検証にあたって正確,精緻であることで,ランケが用いたのはこの意である。しかし自然科学は個々の自然現象が従う一般法則を樹立することを目的とする。これには「歴史学」は応えず,ただいかにそれはあったかを示すだけと繰り返し説いたランケやその後継者に対する反動として,この第2の意味での“科学的”歴史を確立しようとする試みがいくつかなされた。コント(1798〜1857)の投じた波紋は非常に大きく,その後1世紀以上にわたり現在にいたるまで,「歴史学」と「社会学」とのあいだでは絶えざる相互作用がみられる。実証科学の側からは社会を理解する上で必要な原材料を「歴史学」が提供してくれるとして,歴史的研究を重視し歴史発展の基にある法則の探求,そしてその法則による事件の未来の予測をめざした。コントの実証主義はフランスではテーヌ(1828〜92)やルナンに受け継がれ,イギリスの経験的実証主義はミル(1806〜73)の作品に最もよく表れ,バックル(1823〜92)および同時代の人々に衝撃を与えた。またドイツではランプレヒト(1856〜1915)やブライジッヒ(1866〜1940)が文化史を中心に人類社会の発展を左右する未知の法則の探究に情熱を傾けた。一方,実証主義は歴史叙述から当時まだ強い影響力をもっていたファンタジーや宗教的・形而上的要素を著しく弱めた。こうして実証主義的アプローチは歴史研究の領域の拡大と密接に結びついていった。歴史理論に対するさらに広い主張がマルクス(1818〜83)によってなされた。彼はドイツ古典哲学,アダム=スミスに代表されるイギリス古典経済学,フランスの革命的諸学説一般と結びついた社会主義の3者を批判的に総合して,社会的現象の領域に唯物論を首尾一貫して適用しようとした。当時世界的規模で急速に展開しつつあった資本主義がもたらした周期的恐慌と階級対立のしわよせをまともにこうむったプロレタリアートが,その人間性を喪失していくさまを目のあたりにして,マルクスは人間解放を具体的に証明するために人間の本質である社会性の究明につとめた。そして現実の資本主義社会の分析から生産諸関係の総体が社会の土台である経済構造を形成し,これが物的生産諸力の一定の発展段階に照応することを明らかにし,いわゆる発展段階説を提示した。歴史的運動法則の必然性を説くマルキシズムは歴史における法則性が問題とされるときには常に大きな影響力を与えてきたが,同時に厳しい批判にもさらされてきたのである。

【現代】このように19世紀を通して歴史の研究や叙述は過去のあらゆる時代を対象とし,また政治はもちろん経済・社会・文化・宗教と多方面にひろがって驚くべき発展をみ,歴史の世紀といわれるにふさわしかったが,今世紀に入ってからの2度にわたる大戦は歴史学にもはかり知れない影響を及ぼした。そしてそれは新しい関心を育て,多くのハンディキャップを乗り越えて,混沌とした時代の原因を探り,社会の再生をはかろうとする試みを生んだ。すなわち現代を広く覆う危機観は人間の歴史の意味や型を考えさせ,ウェルズ(1866〜1946)・フィッシャー(1865〜1940)・ツュペングラー(1880〜1936)・トインビー(1889〜1975)ドーソン(1889〜1970)らはそれそれ独自の歴史観を展開した。また歴史家の共同企画による歴史シリーズの公刊が盛んとなり,フランスではラヴィス(1842〜1922)の指導のもとで『フランス,その起源から大革命までの歴史』,『フランス大革命から1919年の平和会議までの現代フランス史』さらに『民衆と歴史』が相次いで公刊された。イギリスでもケンブリッジのシリーズものが,まず『ケンブリッジ近代史』,ついで『中世史』,『古代史』,そしてさらに『ヨーロッパ経済史』が出版され,一方『オックスフォード英国史』も公刊された。さらに共通していえることは,両大戦の原因ならびに戦争をめぐる外交の分野の研究が盛んになされ,たとえばフランスのルヌーバン(1893〜)は第一次世界大戦の原因をできる限り客観的に調査する必要から外交文書を編纂してこの方面の研究者に少なからぬ便宜を与えた。これはほかの国でも同じで,ウッドワードとバトラーはグーチ(1873〜1968)らの後を受けて1918年〜1939年までのイギリス外交文書を編集し,また戦争原因に関する文書も集め,ドイツではブランデンブルグやオンケンらが出,戦争勃発の説明を意図してドイツ国民の全体責任にまで言及した。また政治史優位に大きく異議を唱えたランプレヒトは反ランケ派の代表の1人として一般法則をもった社会学的歴史を提示した。そしてブントの社会心理学やラッツェルの人文地理学を包含した“総合的歴史”を試みた。歴史はまず社会心理学的科学であるとした彼は大著『ドイツ史』で実際にこうしたアプローチを行ったが,事実認定の不正確さやその唯物論と還元主義的傾向のゆえ評価は分かれた。彼の試みはドイツよりもアメリカやフランスで歓迎された。ターナー(1861〜1932)はランプレヒト同様人文地理の影響を強く受け,人間活動の全領域を考慮しなければならず,他と切り離しては理解できないと考え,その著『アメリカ史におけるフロンティアの意義』でアメリカの制度を地理的・社会的環境に対応するものとしてとらえた。彼と同時代のロビンソン(1863〜1936)も社会的分野に注目し,社会科学に開かれた歴史を書き,それを“新しい歴史”と呼んだ。彼の友人ビアード(1874〜1948)はターナーやマルクスの影響を受け,『アメリカ憲法の経済的解釈』を著した。このように社会史は1920年以降アメリカでは確固とした地位を占め,やがてシュレジンガー編の『アメリカ生活史』となって現れた。フランスでも20世紀初めには歴史家と社会学者の対立がみられ,シミアンはベーコンにならって歴史家の三つのイドラ(幻像)−−政治のイドラ,個人のイドラ,年代記のイドラ−−を攻撃し,なかでもとくに従来の歴史が出来事を重視することを非難した。これに対してセーニョボス(1854〜1952)は歴史はユニークなものに関する科学だとし,科学性の強調と一般化の拒否をどう調和させるかがこの時代の歴史家に課せられた課題であった。1920年代に入って新しい歴史の運動がフェーブル(1878〜1956)とブロック(1886〜1944)によってすすめられ,「アナール(歴史年報)」が発行された。ランプレヒトやターナーと同じようにフェーブルらは政治史中心を嫌い,それに代わる,より広い,より人間的な歴史をめざした。そしてすべての人間活動を含み,事件の記述よりも構造の分析に関心を示した。その後ブローデルが受け継いで,歴史と「社会学」のあいだはますます緊密化していった。「地理学」,「社会学」,「政治学」など出来事と構造をあつかった彼の『フィリップ2世時代の地中海世界』は全体として今世紀の傑作の一つに数えられるだろう。こうした傾向はフランス,アメリカに限らず世界的なものとなっている。