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●塩の道 しおのみち

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 広くは原始時代からの塩の流通路をいう。それは海路を根幹とし,湖沼・河川・陸路を支線とした。またそれぞれの結節点や小売・行商あるいは大量消費者との接点に,問屋・塩宿・仲買などが存在して流通の円滑化をはかった。狭くは,塩専売制施行以前の恒常的塩運搬陸路をいう。塩道は原始時代から生活のために,海に最も近い道として踏み固められたものから始まる。縄文時代後期に関東・東北では,海浜の集団と内陸の集団とのあいだに,物々交換として塩が動いていたことが推定できる。弥生時代には集団の一部のものが,農・漁業のかたわら自給以上の塩を生産し,これを集団内で分配し,または首長の指示に従って他集団にも送ったと思われ,古墳時代には海産専業集団が発達し,東部瀬戸内と若狭の塩が畿内ヘ,能登塩は北陸・東北ヘ,知多・握美の塩は中部・関東ヘ,天草の塩は九州ヘ動いたと推定される。古代には海産専業集団は海人部に編入され,律令政府が塩流通の中枢となった。奈良期には調庸塩の流通以外の農民的流通もあらわれ,平安期には塩船の動きも多くなった。平安中期には荘園の本所が流通の機軸となる。中世においては本所から交易自由の特権を保証された回船による輸送が一般化し,荘園の貢租塩も本所の分のみ現物納とし,他は市で売却して銭納化され,塩の自由な流通部分は多くなる。港から都市へは馬借運送し,塩座商人がまた各地の市で販売した。1444年(文安2)1年間に兵庫北関を通過した瀬戸内塩の量は10万石をこえ,この量は100万人以上の消費に応じたこととなる。戦国期における京都への流通ルートは瀬戸内塩−淀川−淀魚市−京都。北陸塩−敦賀・小浜−近江−京都。東海塩−不破関・八風・千草街道・日野−近江−京都であったことがわかる。近世には初期に全国海上交通網の整備があり,生産力差から瀬戸内塩が各地の揚浜系塩を駆逐し,一定量の塩が恒常的に塩回船で需要地に直送されるようになる。瀬戸内東部の塩は大坂・紀伊・東海・江戸へ,西部の塩は西回りで山陰・北陸・東北西岸に回送された。また初期から川舟運送も発達し,地場塩のみならず瀬戸内塩も大量に内陸部に輸送されるようになった。揚陸地点からは牛馬の背によってさらに奥地に送られるようになり,そのルートも輸送手段も販売の形態も定まり,塩の道が固定した。代表的な塩の道(陸路)は次のようである。東北 野田べコの道(海水直煮塩)=野田村→自石峠→下戸鎖→外坂峠→江刈→沼宮内→盛岡→雫石。津軽街道(内海塩)=鯵ケ沢町→弘前→碇ケ関→坂梨峠→濁川→毛馬内→花輸。中村街道(相馬塩)=中村→金山→東玉野→掛田→福島。ショイコ道(内海塩)=荒川町桃崎→関川→小国→沼沢→宇津峠→松原→小松→米沢。関東 十国峠越(行徳・内海塩)=行徳〜松戸〜流山〜関宿〜徳川(揚陸)→伊勢崎→前橋→渋川→沼田→清水峠,三国峠,〜倉賀野→高崎→碓氷峠→佐久・上田。中部千石街道(地場・能登・内海塩)=糸魚川→山口→大網峠→葛葉峠→来馬→千国→切久保→飯森→海の口→大町→池田→穂高→松本。北国街道(地場・能登・内海塩)=直江津→新井→中山八宿→長野。飛騨街道(能登・内海塩)=富山市東岩瀬→富山→笹津→猪谷→蟹寺→飛騨高山。塩付街道(三河・内海塩)=名古屋→瀬戸→柿野→大草→大川→明智→上村→治部坂峠→浪合→駒場→飯田→伊那。飯田街道(三河・内海塩)=名古屋天白町→赤池→御船→追分→足助→明川→伊勢神峠→小田木→武節→根羽→平谷→浪合→飯田。近畿塩鯖の道(若狭・内海塩)=小浜→水坂峠→今津。生野街道(内海塩)=飾磨→姫路→仁豊野→屋形→粟賀→生野峠→生野→円山→新井→但馬竹田。四国 梼原道(土佐塩)=須崎→梼原。九州 人吉道(八代塩)=八代〜人吉〜多良木→西米良。

 1905年(明治38)の塩専売法施行以後は,塩の官費回送,販売官署の設置,小売人の販売制限価格の制定などによって,塩輸送路もその手段も大きく変った。

〔参考文献〕専売公社『日本塩業大系』

亀井千歩子『塩の民俗学』1979,東京書籍

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