●シオニズム
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シオンの名で象徴されるパレスチナの地に民族的郷土を再建しようとするユダヤ人の近代的政治運動である。ヨーロッパ社会におけるユダヤ人の差別と迫害は,ユダヤ人の自己変革による周辺文化ヘのユダヤ人の同化という方法によって解消されうるものでなく,ただ自分たちの国家を世界のある地域に建設することによってのみ解決しうるものであることをユダヤ人が自覚したときに,シオニズム運動がおこった。M.ヘスの『ローマとイェルサレム』(1862)は,パレスチナにユダヤ人国家の建設を主張する。これは中東やドイツでの反ユダヤ的事件や動きのなかで生み出されたものであったが,1881年,帝政ロシアにおける大規模なユダヤ人迫害(ポグロム)とその後の反ユダヤ的立法によるしめつけはレオ=ピンスカーの小著『自力解放』(1882)を世に送る契機となり,またパレスチナ入植促進委員会の設立をもたらした。同じころ比較的自由な雰囲気をもつ文明都市パリでドレフュス裁判が開かれた(1895)。参謀将校ドレフュスが軍事機密漏洩の罪を問われ有罪となった事件である。彼がユダヤ人であるがゆえにスケープゴートとされた,まったくの冤罪であった。この裁判は,ヨーロッパの自由主義体制下において反ユダヤ主義がきわめて容易に宣伝され,人々のあいだに中世的反ユダヤ感情を復活させていくことをまざまざとみせつけた。オーストリアのジャーナリストとしてこの事件を取材していたT.ヘルツルは深刻な衝撃を受け,翌年『ユダヤ人国家』(1896)を発表,ユダヤ人が自ら国家を建設し,諸外国によってそれを正式に承認させる以外にユダヤ人問題の解決のないことを訴えた。さらに翌1897年,彼はバーゼルで第1回シオニスト会議を主宰し,執行機関として「世界シオニスト機構」を設置,また会議で採択された「バーゼル綱領」の前文において〈公的に承認され,かつ法的に保証された郷土をユダヤ民族のためにパレスチナに確保する〉ことを宣言した。ヘルツルの精力的な活躍がその後のシオニズム運動に大きな弾みを与え,彼に先駆するシオンへの復帰運動や組織は,ヘルツルの運動と組織のなかに吸収されていった。彼がシオニズムの父といわれるゆえんである。シオニズムの運動もその歴史には紆余曲折があった。すべてのユダヤ人が賛同したわけではない。正統派の一部は,神の業に対する人為的で不当な干渉とみなし,改革派は時代錯誤と断じ,経済的にも知的にも西欧社会で確固とした地位をえているユダヤ人のなかには関心を寄せない者もいた。しかしこのような一部の対応は,ヨーロッパ社会においてユダヤ人に加えられた重圧のもとでの呻きの前には,決して大きな流れとはならなかった。一口にシオニズムといっても内容は多様である。パレスチナの地に移住し,そこに生活の場を築くことを重視する実際的シオニズム,これとは対照的なアハッド=ハ=アムなどの文化的精神的シオニズム,さらに祖国復興を外交的手段をもって実現しようとする政治的シオニズムなどさまざまであった。 1917年,イギリスの書簡形式で発表された「バルフォア宣言」は,シオニズムのめざす〈ユダヤ人のための民族郷土〉をパレスチナに建設する可能性をひらいた。やがて第一次世界大戦後,イギリスの委任統治下で多くのユダヤ人が入植していくが,数が増加するにつれ,アラブ系住民の反発は無視しえないものとなり,ユダヤ人の土地購入と移民をイギリスは厳しく制限せざるをえなくなり,ユダヤ人の反英感情をあおる結果となった。一方,シオニズムは植民から独立国家建設へと路線を変更し,英国にかえてアメリカへの接近に努力していった。結局アメリカがパレスチナの処理を国連にゆだねたのを機会に,委任統治の期限終了をまってユダヤ人はイスラエル国の独立を宣言した。これは1948年5月のことであり,ヘルツルのバーゼル綱領から半世紀に具体化したシオニズムの理念の結果であった。建国後シオニスト機構は,世界各地からイスラエルをめざすユダヤ人の移民業務に積極的にかかわるとともに,イスラエル政府に協力して多難な新国家建設に一役を担っている。
〔参考文献〕小林正之「ユダヤ人−その歴史像を求めて」1977,成甲書房
奈良宏志編『ユダヤ人』現代のエスプリ121,1977,至文堂