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●塩(日本) しお(にほん)

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 日本では岩塩が産出しないので,それを輸入するとともに,海水をイオン交換樹脂膜法によって濃縮し,これを真空式煎熬(せんごう)法によって食塩を生産している。日本人にとって塩の最低必要量は1人1日10〜15Gであるが,肉食より植物質食糧を主とする者のほうがその必要量が多く,また高温状態や寒冷状態,また発汗量が多い筋肉労働者の場合にも摂取量は多くなる。現代では食糧塩のほかに化学工業,とくにソーダ工業において,ナトリウム源,塩素源としての工業用塩も必要である。国内総需要量は約750万t,このうちソーダ工業用が77%,家庭用を含めた一般用塩は23%である。塩は専売品であり,生産・流通・販売・輸入が塩専売法で規制され需給の安定と安価な利用がはかられている。

【原始時代の塩】縄文後期後葉には,関東から東北地方において土器による製塩が行われ,内陸部と物々交換による流通があったようである。弥生中期には東部瀬戸内でも土器製塩がはじまり,古墳期には,これが西部瀬戸内,北陸沿岸,東海沿岸などに伝播したようである。土器製塩の工程は,海藻による海水濃縮→土器による煎熬→荒塩→固型焼塩(堅塩)と推定される。堅塩は交換品あるいは権力者への貢納塩として用いられ,一般には荒塩または海水が直接利用されていたであろう。土器製塩は7世紀初めには衰退するが,祭祀用としては11世紀ごろまで生産されたと思われる。伊勢神宮では今でも生産し祓い清めの塩として使っている。

【古代の塩】7世紀には浜砂によって海水の濃縮を行うようになり,塩田法に先行する略奪的採鹹法ともいえる塩尻法がはじまったと推定される。干潮時あるいは波浪を被った浜砂が乾燥して,砂面に塩分細結晶が付着した砂(鹹砂)を採集し,これを適時海水で溶出して濃厚海水(鹹氷)を得る方法である。また満潮面より高所の砂浜に,人為的に海氷を撒布して同様に鹹水を得る自然揚浜法もまもなく出現したと思われる。煎熬には大型の土鍋が用いられたことが推定される。

 8〜9世紀の文献には,石塩・戎塩(計量単位斤,舶栽塩か)・生塩・荒塩(計量単位石・斗・升・合)・堅塩・黒塩(計量単位果・顆・裹・連,固型焼塩か)・舂塩・搗塩・破塩(計量単位石・斗・升,堅塩を粉砕したものか)・煎塩・熬塩・白塩(細粒状の焼塩か)などがみられる。調庸塩の生産者は海部であったことが推定され,また地方豪族が私的に生産したことも考えられる。8世紀になると権門寺社が塩山を抱え込み,百姓の塩生産を掌握する塩荘園の原型も現れてくる。煎(熬)塩鉄釜として径5尺8寸,厚5寸,深1寸などと記されている鉄釜は,荒塩を焼き,粒状焼塩を生産した釜と考えられる。同型のものが千葉県金谷神社に御神体(鉄尊様)として祀られている。

【中世の塩】荘園公領制の時代になると,採鹹法も地域の海水干満条件に応じて,入浜系塩尻法(東京湾・伊勢湾・瀬戸内各沿岸)・自然揚浜法(日本海・太平洋岸)・汲潮浜法(瀬戸内の半島・島嶼部)に分化した。中世の塩田は制度外的な地位に置かれ,畑地と山野河海の中間に位し,荘園公領として山林・田畑・塩田を保有する名主の名田経営の一環として生産され,また伊勢や宇佐では神人の生産などもみられた。塩の計量単位は篭・俵・桶などが使われ,塩の形態は荒塩(生塩)が主となった。10世紀ころより廻船による運送,販売もみられ,貢納塩以外にかなりの塩の流通もあった。12世紀末の僧顕昭の『六百番陳状』にみられる入浜系塩尻法は,14世紀中ごろ,防潮堤を設けて,干満時問に制約されずに採鹹作業が可能な古式入浜に発達した。瀬戸内ではそれが13世紀末には出現していたと思われる。13世紀には,中央都市では荘園領主らの年貢塩の余剰分が市場に出された。塩商人も搬入したであろうし,彼らはまた内陸部へも搬入,販売したであろう。1445年(文安2)の『兵庫北関入船納帳』によると瀬戸内各地からの塩が,生産地の荷船やほかの港湾の買い出し船によって大量に京都方面に運送されていたことがわかる。これらは塩座商人によって販売されている。戦国大名領が形成され,荘園体制が解体・消滅しても塩座商人はいぜんとして塩の配給を独占し,また惣村のリーダーたちが大名の被官化した新型の特権商人として登場し,重要物資を扱いながら塩宿を兼ねた。また大名は戦略としての塩止めや籠城のための備蓄なども行った。

【近世の塩】大坂の発展,加古川上流への高瀬舟航路の開発による急速な市場の拡大,加古川・市川デルタの発達,姫路の石材・石工・石工技術の存在を条件として,17世紀前半に姫路藩で入浜塩田が出現した。古式入浜が大規模合理化され,賃労働を使役する企業的塩田で,一筆面積約1町歩,賃労働約10人,釜屋・納屋を付設して一軒前と称した。反当り製造塩量約100石と生産性が高いため,急速に瀬戸内全域に普及し,17世紀末には全国製造塩量の50〜60%,19世紀には90%を瀬戸内塩田で生産するようになった。19世紀後半の瀬戸内塩田面積は約4,000町歩となった。この入浜塩田法を1826年(文政9)に視察したシーボルトは,ヨーロッパに比してはるかに完全度が高いと驚いている。瀬戸内東部の塩は近畿・東海・関東から中部ヘ,西部のものは山陰・北陸・東北西部へ移出された。能登では17世紀に塗浜式揚浜が出現し,仙台湾では古式入浜,三陸沿岸では海水直煮,九州では塩尻法古式入浜・入浜・古式汲潮浜などが,それぞれの地域に供給した。

 塩の流通には塩問屋,塩廻船が活躍し,利益の犬部分はそれらが吸収し,大名の収益は多くはなかった。そのため移出専売,移入専売を行う藩もあった。塩価は瀬戸内生産者価格が1升約6文,最高価格約120文〜300文(東北),一般的には米1に対して塩7〜8の割合であった。18世紀中ごろには瀬戸内塩は生産過剰から塩価は低落し,ために藩境を越えて十州休浜同盟を結び冬期休業の方法をとった。19世紀中ごろにヨーロッパの立体蒸発濃縮法(淋乾法,のちの枝条架法)が長崎を通じて導入され,南部藩,鳥取藩などで実験ないし実用化したが,いずれも成功しなかった。

【近代の塩】1882年(明治15),農商務省地質調査所分析係長オスカー=コルシェルト(独)が,日本製塩の非能率性を指摘し,塩池式―流動式塩田(のちの流下式塩田)を提唱した。しかし流下盤+枝条架法は1952年(昭和27)まで採用されない。塩制は維新のさい一時混乱するが,浜問屋が藩権力に代わって,操業資金の前貸し制をもって塩業を牛耳ることとなった。1905年(明治38),政府の財政補填と,台湾塩を中心とする安価な外塩の圧力から国内塩業を保護する目的をもって,塩専売制が実施された。塩業は深化しつつある小作制経営と封建的形態の労働を抱えたまま,専売制という温床に入ったのである。日露戦争後のソーダ工業の発達によって,安い塩の供給要求と,第一次世界大戦による製塩資材高騰との矛盾から1919年(大正8),財政専売から公益専売に変わった。専売局の指導によって塩技改良,品質改良,生産増加,生産費節減がはかられたが,画期的改良は1935年(昭和10)を中心とする合同煎熬―真空式工場煎熬法の採用である。これによる品質向上,生産費節減の効果は大きかった。採鹹部門の改良は第二次世界大戦後のことで,安価な外塩の圧力によって,労賃と地代を切り下げる必要に迫られ,1952年(昭和27)から塩田採鹹法をすべて流下盤技条架法に転換していった。塩田の砂を動かす農業的労働から,動く海水を管理する労働に変質し,労働力は10分の1に減少し,生産量は約2倍に上昇した。

【現代の塩】1972年(昭和37),在来のすべての採鹹法を廃し,全面的にイオン交換樹脂膜法―工場採鹹に転換した。ここでまた採鹹は海水を電気分解するという化学工業に変質した。1952〜72年は製塩業の産業革命期であった。かくして国産塩も外塩に対抗可能な価格となったのである。現在,国内製塩はイオン法により7工場で年間約110万t生産し,オーストラリア塩約300万t,メキシコ塩約280万t,中国塩約60万t,計640万tを輸入している。1982年塩化カリウムを主体とした新しい“塩”が売出されるようになった。〔参考文献〕日本専売公社『日本塩業大系』1974〜1982

廣山尭通『日本製塩技術史』1973,雄山閣

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